こんにちは、マリーです。
今日は体重記録はなく、思いのブログになります。
これから書く内容は、善い、悪い、などを突き詰めたい理由から書くのではありません。
難しい内容に触れると感じているし、わたし自身が答えや正解を書きたいと思っているのでもありません。
時代によっても考え方や捉え方があり、変化もあるだろう。
わたしの声だってもしかしたら、変わる。
模倣という言葉を広辞苑−第六版でみると、『自分で創り出すのではなく、すでにあるものをまねならうこと。他者と類似あるいは同一の行動をとること。幼児の学習過程、社会的流行、さらには高度の文化活動など、文化的・社会的に重要な意義をもつ。』とあった。
だけれどその意図で始めたものであっても、いつしかどこかそこから外れたものや、反対にそのことを利用して非難をする人を見かけることもあります。
模倣に必要となる素材や対象。
そこには人の技術、それまでに要しただろう鍛錬の時間や歴史が存在するものもあります。
動も、静である作品も、物語があります。
広辞苑の模倣の言葉からは、最後にある「意義をもつ」という言葉を重要にしたい。
人は、正義感や道徳心から行動ができる。
ただ、どちらにも「善」と「悪」の両者が存在している。
「光」や「闇」。「善」と「悪」だけでなく、少数の存在に対し、現代の価値観でより多く一致するだろう思考や感情からの排除の観念が、正義感や道徳心には含まれてしまうこともある。
(書いていて思ったが、光はやはり闇を含み、その逆も言えて、善と悪は同一の世界線なのかもしれないと思った。それは二つの言葉の間に置いた、光『や』闇、善『と』悪、を通して。)
闇や悪は存在していて世界があることを前提としたとき、わたしは排除ではなく、愛でその世界と共鳴をしたい。
わたしたちは、自分にとって良いと思えるもの、好きという感情に対して、声を大きくしたい欲求が生まれやすい。
昨日映画を観た。「ぼくのお日さま」というタイトルで、奥山大史氏による監督作品です。
監督のトークやサインの機会もあるイベントを兼ねた上映でした。
自分にとって良いと思えるものは声を大きくしたい欲求が生まれやすいと書いたが、問題提起や負を表に出す感情の方が、もしかしたら大きさは増すこともあるだろう。
善いは声を大に、横へと広げようと。
悪いは鋭く強く、遠くへ届くようにと。
だけれど、『善いものは広げていい』というような感覚に素直に同意はできないでずっといます。
良いものや、好きに関しては、一つ定まるべきものは存在していない。
人は、感情を統一させたい欲求も抱きやすい。
映画「ぼくのお日さま」は、人の幸せや不幸を一定の基準で定め、それをわたしたちの心へと投影をすることで提起をしたいというような欲求を感じず、どこまでもそれは目である眼球で、それが世界は存在し仲間はいることを実感できた感覚になり、嬉しさであり喜びで、尊い体験をしたと感じた。
当たり前にその世界の輝きの一瞬を生きたことがないことに、一瞬、映画を見ながら思う感情も、その輝きが勝りすぐに昇華が生まれていた。
そして道を贈られた映画に思えた。
パズルのピースを渡されたとかではなく、わたしたちが生きていくことへの日常の眼球を与えれたように感じた。
それは全ての色を持つような、そうでないとしたら永続的な贈りもののように。
いつの日も、もしかしたらパズルを完成させる必要などはなく、答えを示す必要があるわけでもなく、だけれどどこかに完成された世界は存在しているという願いの幹を忘れずに、眼を次の世代へバトンタッチさせていくことに努めていくのが人間であるかもしれないと今感じています。
時代によって、善悪は様々に形を変えていく。
映画は同時に、誰も、何も、“不幸ではなかった“ように私は感じています。
幸も不幸も映し出す人の心の投影。
だからこそいつの日も、新しい目をくださいと祈りを持つ。
幸と不幸。善と悪。それが幾重にも交差した歴史がある。
後者を排除していけば道は明るくなるという思い込みを手放し始めるタイミングに、今、わたしたちはあるように思います。
排除は、再生を可能にしてきた。
そうであるならばと、愛による改心を道であるとは思えません。
愛は遠く遠く、点と点が連なる先にあるもの。
愛を起点とするのではなく、愛は先にある祈り。
わたしたちには、贈り物があるよ。
だから、一緒に、これからもこの地球を生きていよう。
マリー
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