こんにちは、マリーです。
今朝は微熱程度でいまは平熱に落ち着いたのですが、ここ数日39.6℃を最高に、38度前半まで下がったりまた39度台まで上がったりしながら寝込んでいました。
まだ頭痛が残っていたり他にも症状はあるけれど、だんだんと良くなってきています。
でも治りかけの油断はいけないですね。
しっかり良くなるまで安静を心がけます。
先日はひと月遅れで生理もきてくれたので、安心もできました。
では、1月29日(月)から2月1日(木)までの体重記録です。
※↓画像はスクリーンショットをまとめたものです
コップの水のたとえを聞いたことがあるのですが、コップから溢れた愛情は、満たされた状態だから他者へと配れる。
曖昧な覚え方をしていたのでネットからこの話を検索して読んでみた。自分の愛情のコップがいっぱいでないのに、他の人へと愛情の水を分けていると失った分の愛情の見返りを求めるそう。
わたしが思っていた認識とネットからのこのコップの表現で違ったのは、そのコップを満たすのが愛情だからなのかもしれないけれど、他者から受け取った愛情でコップの水を満たすというところ。
わたしはそのコップを満たすのは自己への愛だと思っていました。
でもきっとそれも含んでのたとえなのだと思います。
コップのサイズも人によって違うだろうけれど、どんなに他者から愛情をもらっていても、それを有難いものと感謝の心を感じることができなければ、なかなか水がいっぱいになっていくことに気づくことはできないのかもしれない。
でも感謝の思いを持っていたとしても、他者からの愛情もとても多くても、自分が自分に対しての愛を持つ感覚が薄かったらコップの水は溢れていくのかな。
思いやりとか誠実な心とか、正義感とか、許すことのできる寛大さとか、それってコップの水のたとえが当てはまるのかなって考えていました。
たくさん愛情を受け取れるはずの立場である人だとしても、いつまでもコップが満杯にならない人もいるのかもしれない。
余裕がなかったら他の人へ配ることができない、見返りを求めてしまうというのも分からない話ではないけれど。
愛って、満たされているから分けることのできるものとはまた違うようにも思う。
愛はとても考えることを必要とするし、学び続けようと意欲的になることも必要とするはず。
コップの水のたとえの主旨を否定したいのではないし、それに対しての理解の不足がわたしにあると思う。
愛は、想像力。
たくさんの点を頭に描きがなら、どのルートで線を繋いでいくのがいいか。
そして思考力。はたして繋ぐことを正しいとするか、描いた点がそもそも必要な道を提示しているものなのか。
たくさんの力という学びがいるはず。
その学びへの意欲をいつまでもわたしは持ち続けていたい。
辛いとか、苦しいとか、消えてしまいたいとか、居ない方がいいとか、その気持ちに寄り添うことはできるかもしれない。
感情を寄せただけでいまも涙が流れ続けてしまう。
でも、言葉や態度や行動や、愛とは反対にある、誰かの心の痛みになるものに対して、どうして…と考えてる。
知らぬ間に誰かの心を傷つけたこともわたしもあったろう。
わかっていながら攻撃したこともあった。
過去の道に対して評価をして、善と悪に分けないでほしい。
もうやめてほしい。
たくさんの点を探そう。今から見つけていこう。
それは愛だと思う。
創造力だと思う。
掴みたい。
その景色を見に行く。
だめって感情や評価をもしあなたがあなた自身にしているとしたら。
なんでだめなのか、何がだめなのか、いまから考えてみない?
それはなんでだめなんだろう?
そんな辛そうな顔しないで。
きっと心の奥にいるあなたは、まわりがあなたを許してくれる以上に、あなたに許されたいんだと思うの。
その価値の基準を大切にする理由はなんだろう?
しあわせは、充足していることを指すのかな?
ない、ということは不幸せなのかな?
だとしたらあの時のわたしは不幸せだったのかな?
その時は辛かったけれど、いまは大切な気づきをくれた学びであり体験だったと思う。
しあわせの基準は自分で決められる。
だからいつだってわたしはしあわせだって決めている。
ここにある今、しあわせだから。
わたしはあなたを守るために、わたしを生きるよ。
会えなくたって。
気づかなくたって。
知らなくたって。
孤独だとは思わない。
生まれてきてよかったなってすごく今、思ってる。
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