マリーです、こんばんは🌿

深夜の2時を過ぎてからブログを書き始めました。

今日、書きたいことは「あなた宛の言葉を考え続けてくれる人を大事にしてほしい」そして、そうした人たちが増えていってほしいという願いがあって書いています。


6月の下旬に書いていたブログがあって、それを公開するまで書ききれなかったのだけれど、理由に攻撃的になっていく自分の言葉を感じたことがありました。

でも、そのブログの前半部分だけ、今日のブログと繋がりそうに感じているのでそこだけ切り取って載せます。


書くのが遅くなってしまいましたが、体重記録は後日に載せますね。


では、6月下旬に書いていたブログの冒頭部分です。



こんばんは、マリーです。

わたしは最近、目の見えない人の世界を想像することが増えました。

それはわりと、先天的な理由からの人の世界の、ほんの一部分を想像することがあります。


点字の世界はあるとはいえ、文字を視覚で認識をして、本を読むということは難しいはずです。


本を読むという、文学に触れる機会がもしかしたら少ない可能性があったとして、もしかしたら一冊も本を読んだことがない人がいたとして、「見えない世界」と「心の豊かさ」は関わりがあるのだろうか。

そうではないのだろう…とずっとどこかで思っていた感情があり、だからこそ、知らない相手の生きる世界に心を寄せてみようと思って書きはじめます。

そうでなければ、わたしはわたしを見失ってしまうだろうと想像をするからです。


相手の生きる世界は、わたしではない景色がある。

それは目に見えるものだけではない景色もあり、世界がある。

言葉にするとあたりまえなのに、それをどこまで考えていけるか、自分を試したい。



切り取って載せる部分はここまでにします。


話が変わって、以前にブログで紹介したことのある宇場稔『宇宙聖書』という本。

手元にある状態のままそのほとんどを読めていないのだけれど、つい先日、宇場稔さんの『ゼロの革命』を電子書籍で読んですごくよかったこともあって、電子書籍版で令和6年2月発行の『COSMOSの法則』を読んでいるところです。


こちらは読みやすいなと思ってはいるけれど、喜怒哀楽が本当に激しく変わりながら第1章を読んでいるところです。


なので本を読み終えての感想ではないけれど、読みながら日記を書いていて、そこから今日のブログを書いています。


喜怒哀楽と書いたけれど、その表紙ページに書いてある『「肉体は他人である」という気づきが、すべてを変える。』という箇所を見てまず、わたしは宇宙を描いた。

わたしの手が動かしたい方向に動いて瞬きしたいとすれば目を閉じてくれて。

ありがたくて感謝というか、尊いことに思えて、わたしの肉体はすごく一生懸命にわたしの魂に従ってくれてるんだって、一緒に生きてくれているんだと、心強くて嬉しくて涙が止まらない。

そうした肉体の動作にまず感動して本を読めずにずっと号泣しながら今書いたようなことを日記に文字にしていました。


面白いという気付きもありつつ、『疑えば疑うほど、真実が明らかになる』という言葉が強烈で、わたしもその角度で思いを巡らせたいと思うようになりました。


そうして読み進めていくと、なんだか思いやりを感じられないな、とたぶんまだ第1章を読んでいるところだからだろうけれど感想を抱いています。


そう感じた最もの言葉が、“心貧しい人たちです“との表現。

もちろん前後があっての言葉ではあるけれど、わたしは貧しいというのは「状態」であって、その人ではないと思います。



人間が人生を与えられこの生を地球で過ごすことになり生まれてきた時点で悟りの状態であれば地球に生まれた人間ではないとわたしは思います。

だからこそ、気づいた人たちは“まだ“気づけていない人たちにもっと寛容であってほしい。



上からだと思って言葉を放っているだけでその人の言葉はまったく“わたし宛“のものではない。



気付けた人が、気付けていない状態にあることの苦しみを思いやれない限り、わたしは世界は救われていないことと等しいくらいに感じます。



自分ではない人の状態について発信したり、言葉にしたりする時、いままでよりもっと慎重でありたいと思う。


と同時に、SNSはあなた宛の言葉で書かれてはいないことが多いことに、書いている本人は気付いていないことが多いから、どうか受け取る人は、そうした言葉に触れるとき、その言葉は放った人が自分自身宛に書いている言葉なんだと一度前提として置いて噛みしめていってもらいたい。


他人の成功法則ばかりが溢れているSNS。


どうか、あなたのその今の状態を否定しないであげて欲しい。


その言葉はあなた宛のものでは無いのだから。



本当にあなたのために言葉を紡いでいる人を、そうありたいと祈りを届けている人を、どうか感じとってほしい。



心が豊かな人はきっと、その豊かさを分けられる人だと思う。

そうした状態にないのなら、自分の心をひたすら空けていきたい。

そしたら豊かさを受け取れる日が来るだろうし気づけるとも思える。



心が豊かな人は、心が貧しい状態にある人たちがまた笑えるように、どうかその世界を手を拡げて迎え入れていってもらいたい。


心が貧しい状態の人が地球はほとんどをしめていて、同じ人間であっても豊かだと思える人格でいる時期、貧しい状態である時期があったっておかしくない。


貧しいというその状態に善悪の意識から悪者とせず、かといってその状態でいることに飲まれることなくあってほしい。


そして気付いた人は、これから気付く可能性のある人の成長を大事にしませんか?大事に考えてあげませんか?

人間だから退化だってある。

けれど心は成長をいくらでもできる。


心の貧しさは状態だから、変わることができる。


どうか、心の豊かな人は、最適な方法で、時に祈りという方法で、その豊かさの光を届けていってもらいたい。

そう祈ります。


マリー