2026年9月23日(水)。
今日は秋分の日ですね。
今、日付が変わった0時過ぎからブログを書きはじめています。
いつもの挨拶で始まる言葉のこと。
読んでくれた人へ挨拶を伝えたいという想いからもある。
けれどわたし自身が過去のブログを振り返ったときに、おはようの時間なのか、こんにちは、だったのかと書いていた時間帯をおおまかでもわかりたくて書くようにしていることもあって統一をしていません。
なので今は夜間。
こんばんは。遅くなりましたがマリーです。
体重記録は4月以降の詳細記録を毎日ゆっくりペースで用意しているところです。
でも、今日は体重記録は載せない予定でいます。
さっき、SNSを見ていてたまたま、お子さんの痛みからのその状態を伝えているものと出会いました。
それに回答されていくコメントのようなところはとても読んでいけなかったけれど、それでもそれから暫く、その子から痛みが引き、状態が良くなり安定していかれることを祈っていました。
祈っていたその時間、なんだか色々な、たとえば宇宙のサポートのようなこととか、そうした目に見えない力がわたしを包んでくれたように感じて、その祈りが本当に届くんじゃないかなって、そう一瞬ではあったけれど思えたんです。
ただその時、あるYouTuberさんと呼んでいい人か、分からないけれど、YouTubeで発信されていた情報を思い出しました。
もしかしたら内容を知っている人もいるかもしれませんが、お名前は出さずに書いていきたいです。
それは批判をしたいのではないこと。
考え方としてとても理解ができる発信でもあること。
そうした理由からではあります。
でも、もしかしたら書いていく中、元のYouTubeからの発信の内容を知りたいと思う人もいるかもしれません。
だってその思考方法が心に響く人が多いことだってわかるから。
なのでブログを書きながら、もし必要だと感じたらその発信内容のリンクを掲載しますね。
…すこし考えたのですが、該当のYouTubeの発信から言葉を拾わせていただくのに、その人の想いや、それこそ、その動画に込められた祈りを感じ取れずにわたしの一方向からのブログで書いていくのはどこか違うと思いだしました。
と思い、動画のリンクを貼ってみていたところ、なんだか心にざわつきや違和感があり、その人の発信の考え方の一部からわたしが思うことを書くだけにします。
ころころ変わってしまって読み疲れさせてごめんなさい。(必要に思えて載せることに変えています。)
でもあらためてですが、その発信者の人は、学生時代の担任の先生からおすすめだから見てみてほしいと教えていただいた発信者さんで、参考にする機会もあって、決して批判の意で書くのではないことをあらためて書いておきたいです。
動画の中で、『世界を平和にしたい→世界は平和ではないとその人に映っている→世界は平和であると信じる』『幸せになりたいというのは破綻している→幸せじゃない不足を感じている→幸せはなるものじゃなく気付くもの』といった思考の捉え方についての紹介や解説をされています。
それは「ある」ではなく不足の「ない」を観測していることを伝えていて、『幸せになりたい人は絶対に幸せになれません。でも今幸せだなと感じている人は幸せです』と言葉があります。
以前のわたしのブログになります。
これから書こうとしている想いは突然ではなく、以前から思っていた部分があるのでそのブログも載せます。

わたしがさっきの時間に祈っていたとき、世界の平和も同時に祈っていました。
わたしは、不足が不幸であるとは思えません。
無いことに気付いた人はそれが有る世界を知っている人です。
この世界に有る世界線が存在していることを認識できている人です。
不足を知ることを怖れないでほしい。
不足を気付き、受けとめようともがいたり、葛藤して、でも諦めて、それでもと心の奥底から渇望して、不足を受け容れて、そして変わっていくことを決意する。
…そうしたこともあったとしたっていいって、思うんだ。
「無い」ことをこの世界の悪者として存在を消すことによって得られる「有る」だけの世界線。
そうした考え方で救われる人もいる。
でも、平和があると思っている人だけが、この世界は平和があると生きていて、地球のどこかでたとえば争いがあって平和を知らない人がいる。
祈りって無いを有るにすることではないと思う。
祈りは無いにいる人の心を癒してあげる精神の状態であると思う。
だから、わたしはもっと祈りたいと今強く思っています。
発信の中での言葉、『世界を平和にしたいというより世界は平和であると信じる』。
それは、今その世界線に生きている人の命を見つめていないことに思えて、わたしはとても悲しい。
きっと配信者はそういう意味ではないと言いたいはず。
そうだとしたってかなしいんです。
幸せになりたい。世界を平和にしたい。
そんな熱を奪わないでほしい。
何かを欲することを、その熱のような火種を、その人の願いを。
たとえ最初から正解の願いへ行き着かず、間違った願いになっていたとしても。
言葉に飲まれないで。
幸せになりたいっていう願いには、
きっと深くにそれを信じる心があるから願いになる。
幸せになれると信じているから願うんだ。
平和を祈ること。
祈るとき、その世界を自分の宇宙に広げること。
わたしはその宇宙を見たい。
不足に気付くことは必要な愛です。
平和を不足させている人は不足に気づきません。
だから、不足は悪ではない。
愛かもしれない。
気付きという、神様からの贈り物かもしれない。
その人への贈り物を、たとえその人は喜んでいなくて不幸に感じていたとしても、その人ではない人間が、その人の贈り物の査定をすべきではないと思う。
たとえば。
病は贈り物です。
わたしの父親は、胃癌で今年亡くなりました。
昨年9月からの入院をして、頑張りましょうと父を励ましていた手術をする予定だった医者がいた。
その人の頑張りましょうに、声の出なかった父が力強く、信じられない声で「はい」と返答をしたことにすごく驚いた。
希望がわたしにも持つことができた。
手術まで一ヶ月近く、父は待機でした。
手術の前日、出血から手術は延期になりました。
止血の手術があった。
そして週末なら胃癌の手術ができるかもしれないと医者は話した。
わたしたちはそれを望んだ。
その後、伝えてはもらっていないけれど、恐らく栄養の管を別の医者に手術された際に丁寧ではなかったんだろう。
感染症をそこから起こして高熱が出て、手術日はまた延期になった。
わたしはその感染症になった栄養の管の手術は反対していた。
医師は本人に確認して決めますと言い、確認で電話をするとその手術は終わっていた。
後日、父はその手術を胃がんの手術だと思っていた。
胃がんの手術は終わったんでしょ?と言っていた。
その間に、胃がんは転移して、ステージは3から4になり、手術はできなくなった説明があった。
頑張りましょうと言っていた医者は、病院に来た時からかなり難しい手術の予定であったからとその時言った。
余命は11月のその日、半年ほどと告げられた。
わたしは、病は贈り物だと思う。
自分の統合失調症も、その入院も。
父は乗り越える贈り物を大切に受けとめて死んだ。
悲しいけれど、病で亡くなること、人が死ぬこと。
すべてが贈り物だから。
だから、どうかその不幸を生きている人を、不幸にいる人のことを、その贈り物を他の人が査定したり、勝手に奪ったりしないでほしい。
父は不幸だから胃がんの手術を受けられなかったんじゃないよね?そうだよね?
父は大切な贈り物をずっと乗り越えて死んでいったんだから。
死はとてもかなしいけれど、死すらも、その人を愛する人にとっても、贈り物だから。
だからその悲しみの贈り物を、他の人が勝手に開こうとしないでほしい。
わたしたちの一生はとっても短いのだから。
他の人の贈り物を査定したり、羨ましがったり、批判したりしているのであれば、どうかその心の先を、今の自分に届けられている贈り物を見つけてみたいとしてほしい。
わたしは、自分の贈り物に気付きたい。
もっともっと気付いて愛して、大切な贈り物へと姿を変えてあげたい。
あなたの贈り物を大切にしたい。
あなたの贈り物の美しさを知っているわたしでありたい。
そう、生きていたい。
マリー

