2023年7月11日(火)のブログの削除前を掲載

こんにちは。マリーです🌿

本日のブログは7月11日に投稿した、タイトル「スピリチュアル引き寄せにあるないの意識」を再掲載いたします。

それはなぜかというと、実はこの日のブログは3000文字ほど最初に投稿してから削除をしていました。

改めて、この日のブログを読み返すと、どうも書きたいことの核心を全て削除していて、伝えたいことを隠してしまっているように感じたのです。

なので、本題に当たるところを今一度、そのまま掲載することにしました。

7月11日のブログを読んでいなくても、今日の分だけ読んでいただけたら大丈夫ですので、どうぞよろしくお願いいたします。

以下、2023年7月11日(火)のブログ「スピリチュアル引き寄せにあるないの意識」より削除前を再掲載。

この話題に以前も触れたことがあるのですが、ブログを書いている今や日中、スタンディングデスクで作業をしています。

家にいることの多い今の生活。

お尻が椅子にくっついてる?っていうくらいめったに立ち上がることのないその生活スタイルから、日中はなるべく立って過ごすことに変えたのです。

この生活を5月下旬の夜、名前などは伏せますが、とあるYouTubeを見ていて、そうか立とう!と、急にわたしの心に火がついたのです。

そのとき、YouTubeはもちろん座って見ていました。

でも今からだ!と椅子から立ち上がり、部屋にある全身鏡と久々に向き合ってみて…。

「わたしこんなに苦しそうなんだ」と自分の立ち姿に正直ショックを受けました。

いつの日にか見たくなるかもと、その姿を写真に残そうかと悩んだのですが、そのショックが大きく、行動はできませんでした。

鏡の前に立つだけで、座りたい…と顔が、立ち姿が、言ってるように見えたのです。

重そうに立ってるな、苦しそうだな、これがわたしかぁと思ったものの、ショックはすぐに先ほどのやる気の意識に変わってくれました。

それに、その立ち姿でいいじゃない!それも今の現実だし。これが悪いことじゃない!とも思えたのです。

ブログに言葉として書くのは恥ずかしいのですが、わたしは自分の命あることをほんとうに奇跡と思っているし、また美しい存在だとも思っているんです。

誰かと比較しての美しさではなく。

世界に歴史上でも宇宙レベルでも、この名前での命は自分だけ。ただ一つの命。

重さを問うことなく、美しさを比べることなく、でも自分は完璧な存在だと、頭のどこかで思っているのです。

受け入れがたいことを書いていますよね。

わたしは、地球という言葉やマザーアースという響き、すごく好きなのです。

この地球の人間として生まれたわたしたちは、どうしても、成長することや、何かを起こしたり、成功すること、美貌があったりすることを、良いこととしていますよね?

よくスピリチュアルの世界では、ジャッジをしない、執着を捨てろ、などと言う方もいます。

引き寄せや、たましいの双子、ツインレイにソウルメイトなどの話題の中でも、執着を手放すことが大事などと言われています。

それにお金についても、「ない」の意識は持たない、お金がないは言わないで、という言葉を聞くことがあります。

わたしも実際、言葉として考えたり口にすることをやめた一人ではあるのですが…。

とある方の配信を見た日のこと。

わたしはその方の電子書籍も購入するくらい、当時よく注目していました。

その日の配信は視聴者の相談に答える、という企画。

配信の中の相談者は、お金がないので困っています。この先の支払いも難しくて、シングルマザーです。子供にも満足に食べさせることができず、そこからどうやってお金を引き寄せられるでしょうか?

もっと細かな内容を含んでいたと思うのですが、ざっくりいうとこのような相談でした。

配信者はすぐに答えを言い始めました。

その相談内容を読むだけで問題がわかる、と。

自分で(相談者が)書いているじゃないですか。

この配信を携帯などで見ているでしょう?

その携帯は「ある」、じゃないですか。

その携帯電話を維持しているお金が「ある」でしょう?

食事も食べて「ない」んじゃない。食べることができている。

「ない」ことに目を向けるのではなくて、まず「ある」の意識に言葉を変換して考えて、と。

この回答に、わたしの頭にはモヤモヤが生まれたのです。

その方だけではなく、社会的に成功したと言って配信等をしているスピリチュアル方向の方だったり、引き寄せ成功者と名乗る方々の口から、この「ない」を「ある」に変えなさいという言葉を耳にすることがあります。

この考え、お金を引き寄せたと言ってる方々が実際にそうしたから、だからこの方法がいいんだよと紹介しているのでしょう。

でも、そのお金が「ない」と相談してくれた方は、生活が苦しい「現実」があって。

その現実のうちの金銭的な悩みという「事実」を改善したいはずです。

その方々に今所持しているものに目を向けて「ある」の意識に変えてください。

と答えるのは、親切ではないな。と思ってしまったのです。

それと同時に、なぜ、この「ない」を見たらいけないのだろうとも思うのです。

ジャッジはしないで。というのに、「ない」は「ある」に考えを変えてと口にする方がいるのです。

それがどうしても「ない」というその言葉へのジャッジだと感じてしまいます。

きっとお金が「ない」は先ほど触れたように、「事実」なだけなのでしょう。

それにお金だけに限らず、この「ない」は悪者なのでしょうか?

この「ない」の現状がなぜ発生しているか、そこに繋がる言動や思考、このなぜについて、良し悪しとかではなく、把握することって必要なのではと思ってしまうのです。

それに言い換えれば、「ない」の意識は良く「ない」ので、「ある」の意識に変換しましょう。とどうしても聞こえてしまうのです。

たぶん、引き寄せにそもそも「ない」「ある」という概念が存在していないのではとも思います。

この「ない」「ある」に上下意識のジャッジをすることは、優劣意識を育てる地球の今までのきっと在り方だったのかもしれない。

次元上昇した地球と呼ばれる愛と光の世界には、どんな光景があるのでしょうか。

わたしはその景色を見てみたいです。

こういう人がいました。所持している銀行口座全てで残高25円。お財布に103円。PASMOには300円ほど。

全資産で500円未満。また負債もある。

その現状で今日の夕飯を作れず、料理する気力もわかない仕事からの帰り道。

お財布の中身を見ながらこの先の生活を思うも、今はお腹が空いている。お財布に103円だから100円のものは買えない…。

じゃあ、とその道中にあった小さな販売所に入り、PASMOでパンを買って一人暮らしの家に帰宅の足を進める。

その人に、もしです。

銀行口座にもお財布にもお金が「ある」でしょう?パンを買えたでしょう?帰る家が「ある」じゃない。仕事も「ある」のでしょう?

「ない」に目を向けず、今、「ある」ものに目を向けて。

と、もし言ったとして。そしてその言っているその方の生活は、映像からもとても立派な建築に見える自宅から、ペットを愛おしそうに撫でていたとしたら…。

もしその返答を映像とともに聞いていたら、きっとその人はどん底な思いをしたかもしれません。

その人の当時は、スピリチュアルという言葉や引き寄せというものに触れる生活はしていなかった。

だからその映像と言葉を見聞きすることはなかったのです。

でもその後、幸いにもその人にとって地に足のついた人と思える方との出会いがありました。

その方からは家計簿の大事さを教わり、収支を取ることを学び、わたしの浮世離れした「いつかはきっとお金持ちになる!」という妄想から離れられたのです。

書くことを悩んだのですが、読者の方をモヤモヤさせてしまうので書きます。

その生活をしていたのはわたしです。

パンのストーリーも実際の出来事です。

銀行口座の残高は正確な数字ではありませんが、それくらいでした。お財布の残高も100円のものは買えない額でした。

駅から遠い自宅への帰り道。

苦手な夜道なのですが、いつも夜空に浮かぶ月を探しました。

スピリチュアルを通った今は意識していても、新月がいつで満月がいつかなんて把握のしていない頃。

過食症がまだ治らずPASMOで買えたパンを、お店を出てすぐに開けて食べながら月を見つけて、ほっとする。

食べながら、歩きながら、泣きながら、月を見る。

あの日を思い出すと涙が出てしまいました。

自分の過去の一部を書いてしまいましたが、書いたことで、そして今だからこそ、あの日の涙を癒すことができました。

読んでくれて、ありがとうございます。

話をやっと戻すのですが、過去も今もいつだって、たとえお金がない事実があったって、何かに秀でていなくたって、存在しているだけで完璧だし美しい。

わたしはその意識でいます。

完璧っていう言葉が引っかかる方もいるでしょう。

でもどんなわたしだって美しい、その思いでいるのです。

なので、現実に体重100キロ以上ある自分のことを大切に思っています。

たとえ人から浴びる言葉やぶつけられる感情が、その大切から離れた意識を持つものだとしても。

わたしがわたしを大切に思うことを否定したくない。

今あるこの存在は美しい。

それはわたしだけに限った言葉ではない。全ての人にその思いでいます。

わたしの隣にいる人や、周り、出会う人たちみんなに、尊敬とその存在の美しさを思う。

今の自分は嫌い。自分は頑張っていない。そう口にしてる人の話を聞いた日を覚えています。

その方にはわたしの「声」はいっそう否定の言葉に変換されました。

何かをしないでいる自分は頑張っていない。とわたしは思えないのです。

ただそこにいること。命があること。産まれてきたこと。そして、今を生きていること。すごく奇跡だと思うから。

誰かの頑張れにプレッシャーを感じる人がいることは知っています。

人に頑張れは言わないようにしてるって方もいるでしょう。

でもそうやって自分が頑張っていることを、この言葉が正しくないかもしれないのですが、知っている人、は少ないだろうと思うのです。

今ある命は完璧で、生きているだけで素晴らしい、奇跡の存在。わたしはそう思う。

言葉としてストレスに思った人。嘘だと感じた人。自分はそんな存在じゃないと否定する人へ。

それでも、読んでくれてありがとうございます。

たとえあなたがあなたに対して、完璧で美しく尊い存在だと、自分のことを思えずとも、わたしがそう思っている。

でもこれはマリーのブログのマリーの考えだから。

あなたはあなたの考えでいいのですからね。

マリーのブログを読んでくださってありがとうございます。

今のあなたであることに、今日もありがとう。

マリー

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この記事を書いた人

30代後半です。
日課にしている体重記録と日々の思いをブログに書いています。
10代後半から精神的な病による入院・再発歴あり。
現在は服薬管理のもと、安定した日常に。
少しずつ自分という唯一無二の存在を愛おしくなるような、自分自身を見つめる時間になるようなブログにしたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします🌿

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