精神病棟での入院の話−宇宙からのギフト−

こんにちは。マリーです。

今日は、過去のわたしを癒してあげることにしました。

33歳のときに経験した、精神病棟の入院での話になります。

事実ではありますが、これはわたしの目を通しての話です。

今日のブログは自分の人生を悲観するために書くのではありません。

書いたとおり、癒すために、今日、マリーのブログを書きたいと思います。


精神病棟での入院ですので、事実ではあっても人によっては苦しく感じさせてしまう可能性があります。

どこまで読むかはあなたが決めてください。

でも、わたしは入院の経験の全てを癒せたわけではないけれど、貴重で崇高な自分の人生の大切な一部であると感じています。

その意識をもって書いていることを、どうか頭の隅に置いて読んでいただきたいです。


わたしが入院していた期間はちょうど月の初めから月の最終日の1ヶ月間でした。

抱えている病の入院期間からすると、1ヶ月はとても短い期間のはずです。

年の月の中でも後半に入院したのですが、実際も年越しは病院ですねと言われていました。

でも、わたしは一日でも早く退院をしたかった。


その願いは、数ヶ月以上早い退院によって叶いました。


今も、あのときのあの瞬間のわたしの言葉はどこから生まれたのだろう?

そう思う言葉が入院期間にあります。

それは、入院して半月ほどしたときの日中のこと。

部屋の清掃をしてくださる方が、わたしの部屋を掃除してくれたときのことです。


わたしの病室は日当たりが良すぎるほどの部屋で、その日もよく晴れ室内は日差しが入り込み、とても明るかったことを覚えています。

半月ほど入院してから経ってはいましたが、病室は退院するまでの間ずっと個室でした。

そしてわたしの手足はそのとき拘束されていました。

拘束が取れたのはまずは足から。

拘束が始まってから二週間ほど経ったころ。

そして両腕の拘束が取れたのはそこから数日後。

入院してから数えるより、退院から数えた方が短いくらいのときでした。


わたしの部屋を清掃してくださっていた女性の方が声をかけてくれたのです。

たしか、「拘束されててつらいわね。」だったか、「拘束が大変ね。」だったか。

その言葉の詳細を忘れてしまったのですが、いつも部屋を清掃に来てくださっていた方です。

わたしが既に暴れない精神状態であったことも知っているのだと思います。

その労りの言葉に、わたしは「よくなるためですから。」そう返答しました。


今思い返しても、あの日のわたしの言葉はきっと未来のわたしが言わせたのではないかと思うしかありません。

苦しいね。と想いを寄せてくださった方に、わたしは苦しいとは言わなかった。

その入院期間に自分に起きたこと全てが、未来のわたしをよくするためだと、きっと心の底から理解していたのだと思う。


そこの病院は精神病院の入院機関としても、特殊に思えた。

担当医(主治医)は途中で男性から女性になった。

それは多分わたしが男性を嫌がったからだったのだろう。

でも、その女性担当医は週に1度か2度、顔を見せるくらい。

退院の話のときも退院時も、その主治医は不在だからといなく、数回しか見た記憶はない。


わたしが精神病を発症した際の初めて入院したときは、主治医は日に何度も来てくれるような病院だった。

手足の拘束も一日だけで済んだ。

だからといって、そのときの方が33歳の再発での入院よりもっと症状は重かった。

緊張病性混迷状態で運ばれたわたしは目は開いていても、混迷状態で体が全く動かなかったらしい。

このまま混迷状態が続くと体が壊死をするとのことで、その当時の治療(現在はmECT無けいれん性通電療法などのはずで当時はそれとは異なるはずです)電気けいれん療法ECTを行いました。


話が逸れてしまいましたが、2度目の入院先はとても過酷だった。

手足を拘束されているので水を飲みたいと言っても、数時間後のご飯で飲めるからと断られることもあった。

ご飯どきは水ではなく、お茶が出てくるので、わたしは水が飲みたいと訴えても叶わなかった。

また、わたしは体の水分率からも、もしかしたら水分を尿として排出をしやすい体質なのかもしれない。

手足を拘束されているので、おむつを履かされているのですが、あまりに交換頻度が多いのか、あるときからこれはおかしいと看護師がわたしのおむつの計量を病室で始めました。

それから飲み水の量も計量されました。

なので、わたしが水を飲みたいと言っても叶い入れてもらえなくなりました。


手足の拘束だけではなく、胴体も拘束がされていました。

わたしは意識がハッキリする中、自分の失われている人としての尊厳の一部を憂いても決しておかしくはなかった。

でも、清掃の女性の言葉に対し、わたしは「よくなるためですから。」そう強い意志をもって返答した。


その言葉は確実にわたしの周囲の現実をよくするための道のりを整えてくれたとそう思う。


その病院では、何人もの精神科医がいるのだろう。

毎日日替わりのように、夜に病室の外から眺めるだけの期間が入院したばかりのときは続いた。

医者と話したくとも、主治医とは話せず。日替わりの医者が外から日に一度夜に眺めに来るだけ。

医者とわたしはそのとき話をしたかった記憶がある。


そもそも、わたしはそこが病院だとは知らなかった。

警察の、パトカーでない、車で運ばれた。

わたしはその当時、ものすごく早口で言葉が止まらず出続けていたので、警察に車の中確認をした。

これから研究所へ行くのだろう?と。

警察は話を合わせておこうと思ったのだろう。その問いに肯定をした。

だから、わたしは着いた場所は病院ではなく研究所だと思った。


実際、入院の手続きも病院とは思えずおかしかった。

対面した白衣の人はわたしに最初に「なんの病気ですか?」と聞いた。

まぁわたしの口から病名が言えるかチェックしたのだろうけれど、わたしはその問いに腹を立て「それはお前が判断するものだろう。」と返答してしまった。

もちろんその返答に白衣の人はいい気はしないだろう。

同席していたわたしの家族と話をはじめていった。


白衣の人はわたしの小学校を確認したが、家族はそれに完全に答えることができず口を詰まらせていた。

なのに、その白衣の人はわかりましたと次々と話を進めていく。

そう、その白衣の人はわたしを見ずに、家族と話を進めていった。


入院の承諾書も、家族は動揺してしまい、入院者欄に家族の名前を書き、家族の欄にわたしの名前を書いていた。

わたしがそれを指摘しても白衣の人はそれを訂正させずに、そのままわたしは入院することになった。

だから、わたしはここは病院だとは思えなかった。


最初に通された部屋でも、医療保護入院の手引きが置いてあったので、わたしはそれを隅から隅まで読んだ上で、納得いかないなら知事に訴えることのできると記載があったので看護師にそうしたいと頼んだ。

だが、その看護師はなぜか無言を通した。

ここにこう書いているからと、返事をしない無口な看護師だったので、上の人に相談してほしいと訴えると、その看護師は一度わたしの部屋から去った。

そして戻ってきたらたしかその看護師の他にも人が来て、その医療保護の手引きを机の中に入れて鍵をかけてしまった。


わたしはここが病院であるとは全く思えなかった。

夜になり、ようやく、満月のような小さな黄色く薄い薬が1錠出された。

その薬をもってきてくれた方は優しかった。

「わたし、こういうの普段写真に残すのが好きなんです。」

と言って、満月のような薬を見ながら、わたしにとっての月はとても大切な存在なので涙が出た。

その看護師は優しく同情してくれるように背中を撫でてくれたと記憶している。


だけれど、落ち着く薬と言われ飲んだはずのその薬はむしろ精神が不安定になった。

しかも、誰も部屋に来ない。

ここは病院でも研究所でもない。

ここがどこなのか本当にわからなかった。

病室とは思えないような、音楽室のような広い部屋。

えんじ色のカーテンが数枚あるくらい窓のある広さの部屋で。

どこかの学校の教室のようなつくりだった。


なので、わたしは病棟に入院したとは思えなかった。

そこにいることが怖くなっていった。


後日部屋を移された。

確かに病室の雰囲気はあった。

でも、わたしは依然そこがどこで、なんでここにいるのか、医者も誰からも説明がなく、混乱していた。

むしろ、警察に聞いていた研究所と言われて連れて来られたここが、わたしのことを調べるのではなく、なきものにするための場所に思えた。

なので、わたしは誰も部屋に入れないようベッドで扉を塞いだ。

しかしその様子は扉もガラスがあるので筒抜け。

すぐに人が集まってわたしの部屋に入ろうとした。

わたしは必死にベッドを押さえそれに抵抗した。

部屋の外には太い注射器をトレイに入れて看護師が立っていた。

本当にこれからなきものにされる。

その恐怖とわたしはたたかった。


数人の男性看護師によって扉は開いて、わたしは注射を打たれ、隔離病棟の重い人の入る場所へと移された。

そこから手足の拘束は始まった。

とても恐ろしい思いをその後も何度もした。


誰も、ここは○○病院のこういう事情であなたは入院しているのですよ。

それを教えてくれる人は数週間、誰もいなかった。

人間として扱われることも少なかった。



そんな苦しい入院期間だったけれど、わたしは希望を失わずにいた。

先ほどのわたしが放った言葉がそれを教えてくれる。



でもわたしはその入院期間の全てをまだきっと癒せてはいなくとも恨んではいない。

そこでの看護師は入院はじめと終わりでは人も変わり、後半はわたしのことをよく理解してくれ、あなたは柔らかい空気を持っているとわたしに伝えてくれた方もいた。

優しい対応の方も一人、一人と増えていった。


何より、ここが病院だと知ることのできなかった恐怖からの行動とはいえ、わたしがしたことの結果が周囲の行動を生んだ。

だから、誰を責めたいわけでもない。


苦しかったのは事実でも、苦しさだけではない、希望を確かにわたしはもっていた。

今のわたしだから癒せる過去でもあると思う。


こわかったね。つらかったね。苦しかったね…。

でも、数年後のいまね。

わたしはとても幸せにいるよ。

大丈夫だよ。

安心して。

よく頑張ったね。

よく生き抜いたね。

希望を持ち続けてくれてありがとう。


最後に、最初に書いたとおり、事実ではあってもわたしの目を通しての方向のみのブログです。

その病院のことをわたしは恨んでもいません。

なので、病院側の行いの全てが正しいとは思えない方が読者の方にいらしても、わたしの人生にとってそれは全てが正しいのです。

だから安心してください。


わたしはいま、生きています。

自分の人生の歩みを実感しています。

手足は動き、こうしてブログも書けています。

お風呂には毎日入ることができます。

水も自由なときに、好きなだけ飲めます。

夜、ベッドの中で落ち着いて自分の人生を瞑想できる時間があります。


わたしはしあわせの道を、昔も、いまも、この先も歩みます。

あなたがここまで読んでくれた。

それもわたしにとっての希望です。

あなたもしあわせの道を歩んでいる。

そう思う。


この先、今日のブログは編集や削除もすると思っています。

どんな苦難と思えることも必ずその人生にとって大切な意味を持つ。

それを幼い頃より知っている。

だから、この先も、大丈夫。


困難はわたしを成長へと導く、大切な宇宙からのギフトであるから。


マリー

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この記事を書いた人

30代後半です。
日課にしている体重記録と日々の思いをブログに書いています。
10代後半から精神的な病による入院・再発歴あり。
現在は服薬管理のもと、安定した日常に。
少しずつ自分という唯一無二の存在を愛おしくなるような、自分自身を見つめる時間になるようなブログにしたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします🌿

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