こんにちは🌿
先に4月11日(木)体重記録から載せますね!
↓画像はスクリーンショットをまとめたものです
このブログを書いている日は2024年4月11日。
ちょうどマスターナンバーの持つ力をネットで見ていたところで、あっ今日も11という数秘術のマスターナンバーの日だ!と気づきました。
マスターナンバーとはゾロ目のことを指すのですが、100もそのひとつであるのですね。
わたしのブログのタイトルにも100という数字を使用しているので、100のマスターナンバーの意味の解説を読んでいました。
“幸せのパスワード トリニティ数秘術創始者 岡田歩“さんのブログがとても参考になりました。
2018-08-11『ゾロ目(マスターナンバー)についてー数秘術情報』
※ブログへのリンク掲載は違反にならないことを確認の上、どうしても紹介したく掲載していますが、もし読んでくださった方で心に違和感を感じた、ブログの作成者でいらっしゃる岡田様含め、ご意見は当ブログお問い合わせまでお願いいたします。
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わたしの描いていたそれぞれのマスターナンバーへの解釈とも似ているところもあり、共感とともに発見があり、より数字の力やサインに思い馳せる時間をいただきました。
自分で考え、解釈の角度を持ち、意見を持つ。
流される、受け流すとは真逆のようで、きっと意見を持つことは良きこととされやすいですよね。
でも考えを持つことと主張をすることの本質を捉えていこうとする思いやりのような、思慮や配慮がそこに伴わないと、意見は争いの元ともなると思えます。
意見をもらったとき、飲み込んでしまうことや意見に対し意見を重ねることがあると思います。
ネットを見ていると常に自身の意見を伝えられる場があることに気付きます。
自身の意見の中に含まれる感情の面を注意深く観察することも同時に大切なことに思います。
意見には主張側と受け取る側といますが、どちらであっても状況を良くするためのものであってほしい。
関係性を良好にするための、改善に導くための意見であり、それは思いやりでもあってほしい。
それに、意見をもらったときは述べられた主張に含まれる意図を汲み取る力が必要だと感じます。
そして意見を伝えるときは、相手に誤解をさせないこと疑問を生じさせない言葉遣いに努めるのは前提として、感情面との分解と俯瞰の意識を持てるようでありたい。
間髪を容れぬ姿勢ではなく、一呼吸を置いたり、感情的なものではないだろうか。時にそうした感情的な意見となっていたら、それは伝えた本人に怒りと攻撃の意思があるはずなので、まだ冷静になった時に反省があるかもしれない。
けれど、後々も省みることのない意見が多いとも感じています。
意見に対して善悪からの意見もあります。
とくに複数対少数となったときなど、少数に対してを敗北のようにみなしたり、その意見の数にすらも善悪をつけることがあります。
この頃それらを目にする機会が多くあり、考える機会が増え、昨日のブログでもこのことを書きたいと思っていました。
人の行いに対して意見を持つこともありますね。
テレビの内容をネットニュースにしているそれを読んだとき、後々その感情について書きますが悲しくなったのです。
男性からの行動に対して複数の女性が同一意見であったこと、それを当人のいない場で話題にして男性のことを嫌いな人として発言があったとニュースになっていました。
そのニュース自体を鵜呑みにして、女性側に対してよくないと思うことをブログにしたい訳ではありません。
女性側の思いを否定したいのではくて、どちらの側にも想いがあることに対してもう少し丁寧であってもいいのかなと感じたのです。
そして、良いと思う意見を見かけたときも手放しで賛同していないかと、よくよく両者をおもんばかることをわたしは努力をしたい。
もし、意見に対して賛同を示したいとき、わたしだったらどうするだろう。
わたしはネットにクチコミが難しくできないので、YouTubeもインスタグラムもコメントを残すことをしないけれど、もしそれを示したい時が来たとしたら…。
わたしはまず、その意見ともう一方の意見や行いなどの中間に立ち、一度は俯瞰をしたい。
善悪からの意見を乗せるのではなく、引き算のようにその双方の核を探したい。
そしたらそこに何故それは起きているのか、もしかしたら必然性を得られたり、お互いの学びを感じるかもしれない。
なので主張に対して意見があって向き合うとしたら、まず分解をしていきたいという願いがあります。
願い、と書いたけれど、それは意見がネットに散見しているとき同時にわたしは悲しみを抱くことがあるからです。
解釈に軸や角度があり、考えを持ち、そこから意見が生まれ、伝える。そこに悲しみがあるのではなくて、意見と感情とを分けた上でそれぞれの起因する道筋を丁寧に観察したいと思っています。
意見はなぜ生まれたのか。自分の生き方と相手の生き方にも思い馳せて差を捉えたい。
感情に対してはとくに慎重でありたい。
意見と感情はセットになりやすいから。
それを心から出し伝えるときは、自分がなぜその感情を抱くかを丁寧に説明できるようでありたい。
最近、“嫌い“という言葉を見かける機会が複数ありました。
意見(言動)があり、自分はその意見が嫌い、など。
嫌いって言葉が…苦手でいます。
なんだか一方通行に思える言葉だと思えるから。
否定であり、それでいて言葉の最後に置くことが多い。
“嫌う“ではなく“嫌い“にはその人の意思の出どころに終了を示す意図を感じます。
そこで終わらせたいと関係を断ちたい意図がある。
だから悲しみを感じます。
“嫌う“には場合によっては解釈を変える可能性の含みも感じます。
それは理由を多く含んでるとも思える。
あなたを嫌う。あなたが嫌い。
どちらも同じことを伝えたいようで、違う…。
伝える側と受けとめる側、嫌いに対して伝えるまでに至ったこと、言われたこと、どちらであっても想像するととても苦しい。
でもどうか、嫌いと言葉を伝えるのであれば、そこに悲しみを抱く方もいることを知っていてもらえたら嬉しい。
言われた側ではなく目にした側であっても、双方の思いや主張に対してどちらも存在意義を感じ悲しくなります。
それでも意見として嫌いと伝えたいとあれば、相手の主張に対しての嫌いの角度を真正面からではなく、多くの角度を捉えた上でそれでも嫌いと言わざるを得ない理由を明確に自分に落とし込んで伝えてもらえたら嬉しい。
わたしも攻撃的な意見を持つこともある。
わたし自身によく聞かせたいと、今日のブログを書きました。
マリー🕊️🙏
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