こんばんは、マリーです。
今日は体重の記録は載せません。
何度かブログにも書いていますが、わたしは統合失調症です。
だからこそ、“心の声“にとても繊細に生きています。
前回のブログを書いて以降、ある声が心を占めるようになりました。
わたしは、不幸や、鬱や、ネガティブや、そうした感情を大事なものとして生きています。
半年くらいかいつ頃からか、スピリチュアル系のYouTube情報は見る機会を減らして、そうした情報とは距離を持つようになりましたが、たとえば今日の日が風の時代にとっての大きな日など、目に触れる情報があったり、反対に、“知るために“見ることはまだあります。
いまだに多くの人が視聴するYouTubeであっても、二極化の話や、ネガティブの手放しなどの話題があります。
関係のないことを書くけれど、わたしは夕方が苦手というか、体質的な合わない、力が抜ける時間帯で、今書いているこの時間がそうなので、意志を明確にしないとすぐに持っていかれそうになります。
そして、小麦粉製品が体質的に合わず、嗜好としてもそこまで好きではないけれど、くるみの食パンを2枚食べてから書き始めているせいか…その「ある声」のせいか、気をしっかり意識しなくてはいけないと感じています。
今の時代に関わらずかもしれないけれど、しきりにスピリチュアル系の発信者から、手放しや、目醒めなどのワードや、〇〇をやめることで開運になるなどの話題を見聞きします。
体験していないことは、想像力がいつだってわたしたちを救います。
でも、体験はとても尊いものです。
ほんとうに知らなくていいのでしょうか?
知らないことが、わたしたちの道なのでしょうか?
本質を捉えたい。
そして今、わたしの心にある「声」は、本当に“わたしの声“なのかというところを知りたい。
いま、ある声が心にあることを書いていますが、その内容をざっくり書くと、前回、書いた「あなた」への否定です。
それは存在への否定というより、嫌悪の感情の声が多いです。
しばらくこうした声の感情の世界にいて、ふと、先ほど、これは「わたしの声なのか?」という疑問を持ちました。
わたしは統合失調症があり、その病からの妄想かどうかといったところも丁寧に自分の心の声と向き合う必要がある。
「あなた」の存在は、前回のブログのときは穏やかにわたしの心にあった。
ただ、今は急に暴力的に攻撃する対象に心に映っています。
それがわたしの気持ちであると思ってその声を聞いていました。
でも、その声はもしかしたらつくられたものかもしれない。
「あなた」がそうしているのか、なにかがそうしているのか、それかやはり「わたしの声」なのか。
一度、疑問を持つことができたので、この心の声を観察できるまで距離を持つことができそうだ。
どうか、未来のわたしのために、わたしたちのために、書きたい。
この頃たまに言葉にしている「わたしたち」は、とても大きい単位を指しています。
個人を示すものではありません。
ただ、いまはブログにまとめられそうにありません。
書きたい言葉が浮かぶたびに、なぜか打つ前に心から消えていて書けません。
ほんとうは書きたいことがある。
悪が悪いのではないと。
鬱がよくないわけではないと。
ネガティブは手放す対象ではないことを。
目醒めることを促すことが目覚めではないことを。
「今」が大事という、その言葉に惑わされないで。
体験を否定しないで。
あなたを、否定する存在がいるのであれば、それはあなたなのか?と疑って。
言葉にしてまとめていきたいのにできない今がもどかしい。
個人の日記に書くような内容を申し訳ない。
でも、今日、個人の日記にも書いていた。
『どこか、何か心からパーツのようなものが、落ちた…というより、消えたようだ。』と。
心から落ちたら存在が無くなるけれど、消えたなら、映し出せばいい。
本当にわたしの声なのか、疑ってみる。
ずっとわたしの声だと聞いていたけれど、疑ってみる。
今日の、ブログをわたしたちのために書きたいはずなのに、わたしを立て直す必要が先にある。
そのためには前回のブログの「あなた」を嫌悪しているずっとあれからわたしの心にある声をもう一度、みに行く必要があるけれど、だいぶ薄くなっている。
それは、まるで本当にわたしの声のようだったし、わたしの声なんだろう。
ただ、それはどこか、わたしではない。
その声は昨日、日記でも書いていた。
サヨナラと何度も文字になり、「あなた」も「わたし」も消えろとサヨナラと文字になる。
その消えた先の世界はどんなものかと、どんな景色が映るのかな…と、日記は言う。
強く持つ必要がある。
わたしを見失わないように。
意図し、意志を、意思にする。
そうして、また、わたしの世界を、わたしに広げたい。
消えないように。
見失わないように。
たとえ、消えたとしても、落としたのではなかったんだ!
だから、わたしはまた、何度だって探す!
それを、強く、強く。
わたしは、わたしを見つけ出せることを知る者である。
マリー
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