↓画像はスクリーンショットをまとめたものです
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昨日、ブログ内でわたしの精神疾患の病名について書きました。
もしかしたら知ることで苦しむ方がいるのではないか…その思いと、まだ病名を明かすことがどこか違うようだと思っていたのでずっと伏せていました。
でももしかしたら、病名を出すことで、誰かの力になる可能性や、当事者に限らず見守るご家族の方にも伝わっていくのでは…そんな願いもあります。
それにわたしの人生にとってこの統合失調症という病は、切っても切り離すことのできない大きな出来事であり、大切な人生の一部である。改めて昨日ブログを書きながら喜びを味わうことができました。
有難いと思える時間をいただきながら、この人生を歩めている。
この肉体と精神を持って生きている、この幸福。
そして今、とても穏やかな日々と、しあわせだと実感のできる日常があって、そしてこの先もこの人生を描いていけるんだという希望に包まれています。
未来にも過去にもそして今へも、どれも欠けてはならぬ時が流れている。それはご先祖様を通して受け継がれているものを含めて、大きな存在にいつも守られていることを感じています。
全て己だけで成り立つものはないけれど、全ての意識をひとつにしたい。
それは愛を学んでいくような、わたしはそれを能動的に、いつまでも思うこと、想像を寄せる想いに、過去からの積み重ねへの感謝と理解と、反省とゆるしをもって、深めていくようにどこまでも愛を掴んでいきたい。
いまがたとえ不足があったとして、人として足りない要素と対面したからといって、その気付きに対して目を逸らすことをしたくない。
気付きをいただけた喜びと感謝を、愛の体験と光への道への鍵として、この先も歩んでいこう。
風を感じ、大地を踏みしめ、天に全ての心を投影するように、軽やかに、勇ましく、大きく、それでいてどこまでもやわらかく、時の流れへ変化を許可しよう。
隠さずに書くと、50代以降の人生がわたしにはあるように思えません。
想像しようとしてもできないということは、見せてもらえないのか。
それがないのか。
でも、わたしは小さい頃からおばあちゃんになりたくって。
80代くらいのおばあちゃんになっていて、隣には愛する人と信頼する人たちがいて。
そんな願いもあります。
わたしの父方の家系は長生きだよと言われているので、本当に長生きするかもしれない。
それでいて、いつ自分の人生が今日終わったとしても残された家族が日常を失わないように、わたしはノートを書きながらいます。
そのノートには、実務的なことがほとんどだけれど、携帯のロック解除のパスワードやカードの手続きについてなどを残しています。
まだまだ足りない情報があるけれど、それでもいろいろなことを捨てながら、それでいて残すべきものを渡していきたい。
死生観まで書いてしまうと、どうしてもくるしい思いをされる方もいるはず。
なのでそれを書きたいのではなく。
でも、もし、この先に大切な人との出会いや再会が叶わないとしたら。
そうであってもその大切な人たちにしあわせに生きていてもらいたい。
わたしは、このブログを読んでくれているあなたがいることに心からありがとうと感じている。
多くの人を傷つけ、迷惑や、恥ずかしいような生き方をしたことだってあったけれど、それでも人として誕生することのできた奇跡と、望む時代を歩め、愛する人たちを愛しているこの人生に、心から感謝をしています。
今、読んでくれているあなたへ。
その人生とわたしの人生は現実的な交差がなくともワンネスの意識では常に繋がっています。
それは祝福の奏です。
でも、もし光に戻れるのだとしたら、わたしはこの命の使命をひとつ、そしてまたひとつと、かえしていけるのでしょうね。
その世界を描いてもみたいな。
どこまでも美しく、綺麗なその色は、恐怖とは反対の場所に映ります。
マリー🕊️
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