こんばんは。
先に、2024年4月24日(水)と25日(木)の体重記録です。
↓画像はスクリーンショットをまとめたものです
わたしは精神疾患があります。
日常生活は、利き手の右手がうまく動かせないことや手の震え、筋肉の過度な緊張状態を除けば、そこまで影響の出る症状はありません。
ただわたしの身近な人も精神疾患を持っています。
薬の量だけでいったら日にわたしの6倍以上の錠剤の量を飲む必要があります。
それに症状の出るときは人が変わったようになります。
とっても大切で大事な人です。
優しいところも知っています。
でも、症状が出ているときは、どうしてそう捉えているのか、この世界がどう映っているのか…とても近づくことのできない考えになる時があります。
たくさんの病が存在するなかで、精神的な病の中には、寄り添うことの難しいものも存在しているのかもしれない…。
他者にとっては近づき難い雰囲気を纏ったり。
他の病を軽視しているとかではなく、でも、精神的な病と向き合うとき、どうしても恐ろしい井戸の底を想像するような、苦手な深海を思うような、自分の辿ってきた道でもあるけれど、捉えようのない思いに飲まれそうになります。
わたしの入院していた時期、手足の拘束が2週間はありました。
看護師の方がそのとき、拘束する必要のない人を拘束するのは犯罪なんだよね、と表現に違いはあってもそうわたしに向かって話したことがありました。
やっぱり癒えることはないんだなと。書いていて、まだ癒えてはいないのかと気付かされる。
看護師の方もわたしが拘束が取れても大丈夫なことは知っていても、それを医者には伝えなかった。
主治医も一ヶ月の入院期間で数回見た記憶が残るくらい。
当時、母親が毎日見舞いに来てくれたのです。
拘束されている娘を見ることはとても辛かったと思います。
自宅からも電車で1時間以上、それからバスでも数十分、きっとバス停からも歩くような病院だったはずです。
バスも頻繁に来るような場所ではないはず。
いろいろな感情があったとしても、毎日来てくれる母の存在にとても救われました。
わたしの手足の拘束が取れていったのも、医者がわたしを見て外す判断をするのではなく、看護師が見ていて伝えるのでもなく、母親がもう大丈夫ですからと伝えてくれようやく足の拘束から取れていきました。
もし母が見舞いに来ていなかったら、わたしの拘束の期間はもっと続いていたかもしれません。
思い出すと、まだ苦しくなるんだな…。
当時、わたしは服用していた薬を飲まなくなったことから再発をしました。
薬を断つと起こったことの一つとして、思考が止まらなくなって、景色がとてもゆっくりと目に映ってきて、その一つ一つの形状の意味に思い馳せるようになりました。
とくに、点と点を繋ぎ合わせるように、対象の物や人物に焦点を当てるとどこまでも思考が巡らされてしまったのです。
だから、わたしはとても強い妄想型の精神疾患があります。
ただ、本当に全てがわたしが作り出した妄想だったのか。
答え合わせをする術はないかもしれない。
けれど最近、もしかしたら全てが妄想でもないのかもしれない…と思ったことがあったんです。
でもそんなとき、身近な人の精神的な症状を見せられると、何も考えられなくなってしまいます。
本当は、わたしは薬を飲みたくはない。
なぜなら、知ってしまったから。
薬を飲むと、思考の回路を外されたように、考えられなくなることを。
たぶん、言い訳なのかもしれないけれど、薬を飲むと活字が読めなくなるんです。
とくに物語のような想像を巡らすような本が読めなくなっている気がしています。
ただたんに、読解の力がないのかもしれない。
けれどあの頃のように薬の服用をやめて、また再発して入院するような症状にはなりたくはない。
だから服薬します。
でもたまに、薬を飲んでいないときの、どこまでも思考が自由に時代も時間も超えて想像できる、妄想だとしても空想するような、あの感覚に戻りたくなる時があります。
先日、言葉にしていきたい渦巻く気持ちがあることをブログに書いていました。
でもそれらを考えて書こうと今していても、難しい…。
と書いたら、今日のブログ、本当に“わたし“が伝えたい本心では全くないことに気づかされました。
わたしはこんな生き方がしたいんじゃない。
病があることは知っている。
20年くらい共にしている精神疾患だ。
ブログに病名を書くのは初めてになりますが、わたしは統合失調症を持っています。
その統合失調症を持っていて、薬を飲んでいる。
薬を飲むと食欲が増える。
体重も増えた。
そんなこと知っている。
薬を飲んでいると、死に急ぐような生き方をしなくなる。
全然それがいいとが悪いとかではなく、事実としてそうなった。
全て、わたしにとって、必要だったんだ。
統合失調症だって、わたしへの神様からのギフトなんだから。
それを知っているはずのわたしなのに、この頃ずっと暗い感情と共にいて、逃げたくなって、現実的に統合失調症の精神が分裂した発言に触れると、逃げ場のない世界に閉じ込められるような思いになった。
だとしてもわたしは生きている。
そしてこれらを望んでいて、選択していて、導けて、越えていけるんだ。
100人に一人の発症率といわれるほど、身近な病の統合失調症。
同じ統合失調症でも、寛解と呼ばれる過程もその具合も様々。
同じ苦しみもなければ、その人にとっての大変さを比べることをしたくはない。
でも、わたしは統合失調症のおかげで歩める今を生きている。
そのことを忘れてしまいそうになっていた。
気づかせてくれて、思い出させてくれて、ありがとう。
全てがわたしへの贈り物。
ありがとう。
この先も、わたしはこの人生を思い出していくことをやめたくはない!
マリー🌱
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