こんにちは、マリーです。
体重の記録はこのブログとは分けてアップしますね。
ですが画像の作成が進まず後日になるかもしれません。
タイトルの本題に入る前に…。
日常の記録をYouTubeにしている方を家族が追っていて、よく話をわたしにします。
だいぶ前にわたしもその方のYouTubeを数本見ていたときはこれから書くような感情は沸かなかったのですが、今は家族がその人の名前を出すと心が落ち着かなくなってしまい、家族になぜか強く拒否をしてしまうようになりました。
この感情はなぜだろう…と思っていくと、ある考えが見つかりました。
それが、“同意を求めると、洗脳の関係がつくられる“ということ。
そんな意図を持って作成など決してしていないことは分かるんです。
それに同意を対象から得るということは、当たり前にコンセプトの先にあっても、感情としてもあっていいもののはずなのに…。
だけれどわたしは拒否の感情を覚えた。
紐解くと危機感をきっと感じたからだと思う。
それは書いたとおり、洗脳をつくる可能性を感じたから。
同意を求めることは洗脳の関係をつくる最初の一歩になってしまうかもしれないと。
その考えへの経緯など詳細については書く必要はないように思えるので省きます。
その同意と洗脳の関係を思ったときに、ふと映画「ぼくのお日さま」を見た日の感情を思い出しました。
映画では、人物の心の景色を、人類の歴史のようにそれは糸のような水の流れを感じられるところがとても心地よかった。
以前も表現は違えど伝えたいことは同じことを書いたブログがあるので添えますね。
譲れないものとしてわたしに存在していた感覚を、言葉として見つけられたからこそ、これからは意識を向けたいと思った。
それとは別に伝えるという行為から同意を得たいという感情をなるべく排除できるように、あらゆるものに誠意でありたいと思った。
とても素敵な映画です。
どこかであなたがこの映画と出会ったら、ぜひ観てほしい。
そして監督の奥山大史さんからは、わたしが勝手にそう感じただけかもしれないけれど、サインをいただく際に、相手の領域を感じ取り、守ってくださる方だと感じた。
それは視線を向けるということにも礼が存在すると、常日頃わたしが意識を置く部分だったのでそう思ったのだけれど、もちろん勝手な思い違いがあるかもしれない。
でも映画からもそうした、“存在を『守る』“というところを感じたし、その守り方の姿勢のような部分に共通する何かを見たように思いました。
ごくごく最近、大事な人だったり尊敬している方々は、この「守る」という行為をきっと大切にしているだろうと言葉として抱くようになりました。
それを映画「ぼくのお日さま」からも感じたし、同じ空気を監督である奥山大史さんにもちました。
その『守る』は、自分をどこまで研ぎ澄まし見つめられるか?という苦行に近いようなことの繰り返しをしながら、時に手から離れそうになっても失いたくないと祈りのような想いから一進一退しつつも得ていくように思っています。
わたしが苦行を何度も経ているわけではない。
でもこの先も心の眼を持ち続けたいと、映画を通し自分を見つめることができました。
いつか、また監督である奥山大史さんと会えるような機会があるとしたら、いま心にある、このとても柔らかく存在する感情を、言葉にはならないだろう想いを描いて、お会いしたい。
空気は心の奥底を感じさせてくれる、尊くて掛け替えのない、存在と向き合うからこそ得られる大切を含むものだと映画から感じたから。
マリー
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