こんにちは、マリーです。
今回のブログには体重の記録はありません。
以前からずっとやりたかった、パンダガジュマルを時期ごとに写真を並べること。やってみました!
大きくなったなぁ、嬉しいなと1600枚以上ある『パンダガジュマルちゃん生育記録』を眺めることが好きでいるけれど、いざこうして写真を選んで並べると…きっと成長が微差ですよね。
でも一年前くらいの2024年2月の時期より鉢もひとまわり大きくなったこともあって、すごく葉を増やしてくれました。
ただ、先日葉面洗浄シートというものを使ってみたら、わたしの育てている感覚だと良くは思えず、もう使わないようにしようと思っています。
しかも先月末に植え替えをしていたのに、このシートを使っている手で植木鉢を触ったら手を滑らせて、今回も植え替えてすぐにパンダガジュマルの鉢を倒してしまいました。
昨年は植え替えてはじめての水をあげるタイミングで、鉢の重さの感覚がわかっていなくて鉢を倒しています。
そのことで幹が斜めになって育ったことで、葉が土にあたりそうになっているバランスを整えるために植え替えを先月したのに…。
ちなみに、わたしが葉面洗浄シートを使おうと思ったきっかけは、パンダガジュマルの葉は厚みがあって葉水からのカルキ跡みたいな白い粉が目立つのですが、これがおそらく影響して、葉がだんだんかたくなってくることが負担になっているだろうと気になっていたからです。
いつも葉を拭いて磨くようにしてカルキの跡を落としていたけれど、それだとなかなか完全に落としきれないことも気になっていました。
わたしが良くないと思ったいくつかの理由。
まず感じた変化、艶が不自然だというところ。
それに時間が経過すると表現が伝わりにくいと思うのですが、メラメラっとした光沢になっていくんです。
以前シートを使う前はキラキラ光に反射する葉を見ることが好きでいたけれど、時間が経過した今、鈍い反射に変わってしまいました。
なのでわたしの感覚の表現だと、シートで拭いた直後の葉から艶が、ギラギラ→メラメラ→ビ•カー、っと重たい輝き方へなるように見えます。
それと、パンダガジュマルの葉はわたしの自宅の環境だと、葉水はしっかりの量を毎日していても乾燥しやすく割れやすいです。
シートタイプだと葉を割ってしまう恐れもあってすごく慎重に作業が必要になります。
だからといってスプレータイプはまず無香料のものが見つけられず(シートタイプは無香料)、そしてパンダガジュマルの葉の数や位置だとまんべんなく散布するには負担になるだろうと試していません。
もうひとつ気になったことが、シートで葉を拭いたあとは葉水を弾いてしまうところ。
たぶんこれだといっそう乾燥がすすむと思うんです。
そして一番大事なことが、感覚ではあるけれど、観葉植物の元気が減ってるように感じます。
いろいろと書いたけれど、これからも大切に成長を見守っていきたい。
2025.03の写真には、以前パンダガジュマルを植えていた鉢で今ガジュマルを育てているので一緒にしました。

成長すること、大きくなっていくことは確かにいいことだろうし、素晴らしいとも思う。
でも衰退や退化、老化も含めて、時代や時が生む変化の全てを美しいものと受けいれていけたら、恐怖がもたらす想像よりも、目の前の輝きや変化をしっかり感じて、いつだってそのままを有難いと生きていけるだろうなと、わたしはそうした生き方をこの先していきたい。
一点の姿を見てそれをすべてだと受けとめることなく、点の連なる連綿の時空を同時に想うことを大事にしたい。
もし、誰かの負の部分を感じたのなら、それは悪いとすぐさま伝えることや、負を広げる輪に加担することをやめ、もっと丁寧に見れる心を養いたい。
誰かが喜ぶ話題の裏で泣いている人がいるかもしれない。
一方の悲しみだけに寄り添うことではなく、いろいろなもし〜の場合だったのなら?に気付けるようになりたい。
これからの時代に、自覚と責任をもって言葉を扱う人が増えていくことをわたしは望む。
社会的な立場や優劣から上下関係をつくって、自分は下だからとこの発言はしても構わないんだということではなく、自分の発言した言葉が自分を創っていき社会となることを、みんなで捉えられる世界になったらいいな。
と同時に、許しというものを一緒に考えていける仲間が増えていったら嬉しい。
そして悪に対しても、きっと、いきなり悪になるわけではなくて、理由があったり、環境があったり、社会の見過ごす形でのある意味での許してきた過程もあって悪が存在しているかもしれない。
もし、孤独じゃなかったら、もっと悪はこの世界から少なくなっていくことを、多くの人がわかっているはずなのに、それでも孤独が広がるような社会がいまはある。
心の景色は目には映らないけれど、その映らない振動の音を、わたしは聴こえる人でありたい。
恨みって、すごく重たいものだから、もしかしたらそうした感情と無縁の人からしたら、この世界には無いも等しいと思って生きているかもしれない。
そうした世界でわたしは生きていきたくない。
恨みがある。悪がある。だからといってその反対の世界を美しいと描いてそこへ向かうことが世界が良くなると繋げず、穏やかな空(くう)を探したい。
わからないことは恥ずかしいことじゃない。
知らないことを知っていくことに喜びを抱きながら、わからないこと、できないこと、もっと素直に言えるような世界になってほしい。
わたしは社会で仕事をすることが得意ではないけれど、のんびりした時間がないと気が狂うけれど、それでも、ゆっくりした時間を感じて日記を書いたり、大切な植物をずっと見つめて愛でることができる。
能力って、社会で生きていくことのできる力だと、教育でも大人になってもずっとそう思っていたけれど、おんなじ能力をつくっていく教育や世界を目指さずに、わたしもわたしを許したい。
以前のブログで書いていたけれど、やっぱりオリジナリティって思いやりだと思う。

いつの日かの世界には、自分の能力を多くの人が知って、誇れて、分けあえて、助けあえる世界がきてほしい。
そのために、能力の幅やその世界を広げることをわたしなりに努めたい。
自分のことを“なんにもない“と追い詰めていくことなく、もっと『ない』というものや、『劣る』という状態をしっかり味わえる社会がきたらいいなと願う。
“ある“という状態が存在していることは“ない“が同時に存在しているから。
すべてが優秀だったり、その逆などの比重が強かったなら、きっとこの地球はとっくに壊れていたはず。
だとしたら、『ない』ことだって、この地球を構成している大事なもの。
それをなくしていくことを地球が良くなると思わずに、誰かの劣っていると思われるものを、そっと真心で包むような愛で見守れたら、今と繋がる明日がいっそう美しい世界になると思う。
価値観を塗り替えていく。
今日、わたしが生きていてよかったなと思えるわたしをつくる。
まずはわたしがわたしを塗り替える。
マリー
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