おはようございます。マリーです。
まだ書きたい内容がぼやっとしているところだけれど、書き始めてしまったら体重記録まで長くなってしまう可能性があるので、最初に2024年11月11日(月)〜本日11月18日(月)までの体重の記録から載せます。
【11月11日(月)/12日(火)/13日(水)/14日(木)/15日(金)/16日(土)/17日(日)/18日(月)/タニタ − ヘルスプラネットより体重記録】
↓画像はスクリーンショットをまとめたものです
ここ数日は、体重記録のための画像の作成をしてもブログまで書く気力がずっと出なくて、力も出ない日が続き、横になって休んでばかりいました。
今日のブログの書こうと思っている内容を、何度も読み返して感情が重たく暗くなりすぎないようにしたいと思っているけれど、もし、少しでも引っかかるところや気持ちが引っ張られそうになったら、すぐにストップしてもらいたい。
わたしは日本人だし、文章も、会話も、日本語です。
書き進める前に、どんなことを書こうと思っているか、タイトルのようなところを書かないと、どこまで読んでいいか迷う人もいるかもしれない…。
ひとことで、タイトルのようにすっきりと伝わって、表現のできる言葉が見つけられないかもしれない。
キーワードだけ拾おうとすると「言葉」「日本語」「温度」みたいなところを書きたいと思っています。
わたしは言葉の引き出しは豊かではない。
でも、すごく文字が好きなんです。
手書きの文字も、活版印刷機で刷られた書体も、書物の字も、とくに空間の感じられる文字や、デザインだったり、人の心の感じられるような本や文字と出会うと興奮して、しばらくページから目が離せなくなります。
それと同時に、自分の書いた言葉を何度も読み返す癖があります。
仕事のメールも休憩中など時間をつくっては読み返して、相手の返信は自分のこの言葉遣いあってこうした内容が返ってきてるんだろうな…と、やり取りを何度も往復する時間がよくありました。
言葉の美しい人だったり、人柄のよく表れた文章と出会うと、いつまでもそこから離れられないことが多かった。
その癖は、レタリングやタイポグラフィが好きでいるところから始まっているのかもしれない。
ほんのすこし、文字と文字の間隔を変えるだけで、映る景色まで変わる感動があった。
いつも、願った。
誤解なく、丁寧に、誠実に、迷わせないように、伝わってほしかった。
だからわたしは文字が好きだし、手書きの文字や、美しい装丁の本と出会うと何時間でも見ていることがある。
英語はまったく得意としないので比較しているわけではないけれど、日本語で「好き」とか「ありがとう」とか「あいしてる」って、これくらいの感覚でとか、どれくらい比重のある意味を持っているとかで言葉の変化がなくて、だからこそ、その言葉の前後を読んだり、相手の意図を汲んだり、おもんばかる力を育てていくことってすごく大事なんだろうなと思ったり。
でもこれって育てることが全てではなくて、言葉の数を多くもたない幼児であっても、感覚で知っていたり、備わっているものかもしれない。
でも、文字に関していえば、どれだけ言葉に救われてきたか…とか、どれだけ文字で世界が変わってしまうことを知っているかとか、そうしたことを体験して命とすることって、もしかしたら世界を分けるものなのかもしれない。
日本人だから、日本語を見たら同じ感覚になれるものでもないんだろうな。
わたしは、すぐ泣く。
いまも泣いてる。
テレビを見たらいつも涙が出てるし、漫画を読んだらしばらく泣くし、映画を見たらスタートから泣いてるし、映画館へ行けばトイレまでも号泣してるし、でも、本はそう思うとやさしいな。
本は、わたしが泣きつかれるのを待ってくれるな。
泣き虫って言葉があるし、脳が衰えてるサインだって聞くし、情緒不安定だからかもしれないし、自分でも、なんでこんなにすぐ涙が出るんだろうって不思議だ。
大人は泣くことを我慢できると思っていたのにな。
いま、泣いているのは、今日のブログの内容がわたしにとっては重いものであるから…そのはずだったのに、それ以上に、その後の人生で出会った感動に、喜びに、涙が止まらないでいる。
いままでもブログにしようとしては書いていなかった内容だったし、怖いからと前置きが長く長くなってしまった。
……と、書き始めると、涙は止まり、代わりに指先は冷えてきて、なのに、背中と額には汗があって。
そして、その対象に心を向けるとわたしの世界が歪みをみせていることに気づくことができた。
だから消しました。
いつもながら抽象的になってしまっています。
書いた言葉を消すことができたのは、そして歪み始めた世界から戻ることができたのは、わたしは、わたしと同じように、いや、もっと、もっと、どこまでも言葉を大切にしている人と出会ったから。
それは、わたしの言葉の、自分でも気付いていないような感情までも、丁寧に、読もうとしてくれる人を、この世界にいることを知ったから。
きっとそうした世界はたくさん既に広がっていて、わたしが知らなかっただけかもしれない。
でも、たとえばね。
わたしはこう心に思った。
こわかったね。
もう大丈夫だよ。
生きていてくれてありがとう。
でも、もしかしたらその言葉がその人の心の痛みを膨らませてしまうかもしれない。
そう思った。
だから、わたしはいった。
こわかったね。
大丈夫だよ。
ありがとう。
全ては言わない。
思う言葉の全ては揃わない。
パーツがある、その言葉。
でも、伝わる人がいることを知った。
わたしが隠した言葉をわかる人がいることを知った。
それはなんだか、わたしの人生のすべてが、ゆるしの、それは滝のような勢いなのに、その色は水のままの血に代わって、祝福であって、ある日見た宇宙の景色の返事で、光であるのに、眩しいというより、まるで洞窟の中から外に光があることを初めて見るかのような驚きと感動だった。
わたしは、その感動を知っている。
その感動をいつまでも失いたくない。
忘れたくない。
そして、わたしもなりたい。
「あなた」のようになりたい。
だから、わたしは空間を探す。
存在などしていない空間を探す。
見えていない、現れるはずのない、空間こそが、もしかしたらいつまでもこの世界を糸に変え、それが未来を創るかもしれない。
転がる暴力。
意図する言葉の先の忘却…。
広がるもの、見えるもの、聞こえてくる言葉。
そうではない、どこにも存在しなくて、見えない、音のない世界は確かにある。
なのに、その無が、きっと”わたしたちの”道だよ。
ありがとう。
読んでくれて、ありがとう。
いまのわたしのこころの色を空に探そうと澄ました。
上の、空には、しろっぽい色が広がったけれど、それはもしかしたら雲のように、その上には無限の、見たことのない色がまってる。
そんな気がしている。
マリー
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