おはようございます。マリーです☘️
昨日10月1日(日)と、本日10月2日(月)のヘルスプラネットより体重記録と詳細です。
※↓画像はスクリーンショットをつなぎ合わせたものです
この頃、少し悩んでいます。
思いやりについて考えていきたい。
その気持ちはずっと変わらずに持ち続けている。
けれど、実際はひとりよがりで、相手の言葉を本当の意味で聞いておらず、目の前の人や物事に対して向き合えていないと感じるようになりました。
以前からブログを読んでくださっている方で、マリーのブログが変わってきたな、と感じる方ももしかしたらいるかもしれません。
9月はとくに、正体のわからならい悩みだったのですが、10月に入りその悩みは誰かの声に耳を傾けなくなってきたから、ひとりよがりの妄想の中に陥っているのだと考えることができました。
目の前の相手と向き合わない姿勢は、自分とも向き合えていないのかもしれない。
目の前の人の心の声を避けていたら、思いやりどころか、考えること、思考することからも逃げているのと同じだった。
9月は苦しくもある1ヶ月でした。
この10月は、わたしは受け取る月にすると決めています。
それは本やYouTubeなどの出会いかもしれない。
人を通しての喜びかもしれない。
なんであっても、喜ばしい出来事をたくさん受けとめていきたい。
そして話は変わるのですが、2023年のこれから、わたしにとって大きなイベントが待っています。
20年近く応援しているアーティストと対面できる!そんなイベントが待っているんです!
長年、応援していてもまだ至近距離では一度も会ったことのない方で。
そのアーティストはわたしにとって尊すぎて神だと思っているような存在です。
時間としてはおそらく数秒、それか一瞬、目が合わせられるかどうかの時間だと思うのですが、そうだとしてもその日のことを考えると、想像力のなさから対面したらわたしはどうなってしまうんだろうという楽しみとは別の感情も生まれます。
とはいえ、楽しみにしている気持ちは本当で。
そしてその日に向けて少しでも美しくなりたい。
そう思っています。
この10月に入って気持ちが切り替わってくれたのか、少し楽になってきました。
8月に入り100キロ以上だった体重が90キロ台になって。
2023年の目標にしている一年で4.3キロの減量は目標に届いたのですが…。
そうであってもこの9月は今までのブログに書いていたような、自分自身の存在の美しさだったりこの世に一つの大切な命だなんて思えないことも多くありました。
否定の感情に対して見ないふりをするときもありました。
暗い感情に蓋をしないと決めていたけれど、いざ自分の存在が消えていくような感覚を抱いたとき、向き合わずに違うことを考えてはその感情をないがしろにしました。
結果、思いのブログも書けなくなってきたここ数週間でした。
それとは別にいま、ブログに書いて整理したい感情があります。
あるYouTubeのコメント欄を見ていて目に入ってきた言葉です。
詳細は書かないように気を付けたいのですが、”生きてるだけで偉いよ”という響きは”慰めの綺麗事”、そのような言葉が目に入ってきました。
それを読んで綺麗事ってなんだろうとまず思ったのです。
意味を見ると、いくつか出てくる中でも、現実を無視して、表面だけを取り繕うこと。体裁を繕うことがきっと該当しているのだと思っています。
わたしはこのブログの中でも書いていますが、この世に命ある今というこの一瞬を、とても尊い奇跡だといつも思っています。
偉いとは表現は違うとはいえ、もしかしたらわたしのブログを読んでくださる方にも、いつも綺麗事を並べる人だと思う方もいる可能性はあるのかもしれない。
意見が同じではない人はいて当たり前だと思ってはいます。
でも綺麗事だと、もしそのようにわたしの言葉に対して言われたとしたら…と、自分ごとのように少し心を痛めております。
綺麗事に思えるってどんなことだろうと考えて浮かんだものが二つあります。
その内容を受けとめられていないことによっての否定の感情によるもの。
それか、相手の言葉がその場だけのものに聞こえるとき。その二つがまず浮かんできました。
コメントをまた改めて読んで、わたしの心が痛んだ理由がわかりました。
このコメントの方は今までの人生で、生きているだけで偉いよ、と言われたことや聞いたことがあるのだと思います。
わたしはこのコメントの方の立場じゃなくて、それを言った側の気持ちに立っただけでした。
生きているだけで偉いよとわたしが誰かに言ったとして、それがその人を慰めているのだと理解しながらその人はそれを綺麗事だと思う。
綺麗事だと思うこともその人の大事な感情だ。
そうだと頭では思っていても、慰めた側に立ったとき、綺麗事と思われたことに心が痛くなります。
わたしは慰められた経験に乏しい人生を生きているからか、たまに誰かから慰めの言葉をもらうと涙が溢れてしまうことがあります。
慰めるって、とても神聖な感情に思うんです。
だって、その人の心の痛みに同調させなきゃ出てこなかった言葉ですよね。
切り捨てるのではなくて…。
わたしが昔から人に苦しいと相談することが少ないので、慰めの言葉をもらう機会が少ないだけではあります。
でも、その慰めの言葉を綺麗事にするということは、もしかしたらですが、その方自身が本当に悩んではいないのかもしれません。
それか、すでに自分自身で言ってほしい言葉を持っていて、相手がそれとは違う表現をしていることに対して納得ができず、綺麗事と捉えようとしているのか…。
わたしはこのコメントの人を例えとしてブログに書いていますが、恐らく多くの方がこの方のコメントを読んだとしたら同意をするのだと思います。
でも、わたしは同意はできずに悲しくなった…。
自分語りをここで持ち出して申し訳ないのですが、わたしは今でも忘れられない、慰めてもらった出来事があります。
ライブハウスに通う生活をしていた頃、生きる希望を断とうとしていた時期。
応援しているアーティストの対バン相手の方に声をかけたその日のこと。
その方の一言が、心の琴線に触れてわたしの目から涙が溢れてしまったのです。
つらいと一言、言ったまでを覚えています。
そのアーティストの方は、驚くくらいに慰めてくれて励ましてくれました。
といっても、慰めてもらった言葉は記憶には残っていません。
でも、わたしの応援しているアーティストとまた対バン予定があるから、その日を笑顔で迎えよう!と励ましてくれました。
たまたま後日、旧Twitterにその方がおすすめに出てきて、あの日の方だと見にいったのです。
そしたらインスタグラムのリンクというのでしょうか?
そこに数行、わたしとの出来事を書いてくれている言葉を見たのです。
驚いてインスタグラムへ移ると、信じられないくらいの大きなメッセージを書いてくださっていました。
途中の言葉になるのですが、涙を流し想いを打ち明けてくれたあの人のあの涙をオレは忘れない。と。
その後にも力強いメッセージが書いてありました。
また、今はもう見ることができなくて残念にしているのですが、LINEブログでもその日のことを本当に細かく書いてくださっていました。
この話、慰めてもらうと涙が出てしまうからと書き出してみたものの、涙が出てから慰めてもらっていますね。
違うじゃんと書き終わっていま気付きました。
ですが、わたしが慰めの言葉をとても神聖な感情に思うことも、慰めるって人を救うことのできる言葉であるということを、この日の出来事を通して深く思うからなのです。
YouTubeのコメントの方を非難しているように思えたら、その意図で書いているのではないとはいえ、その方に申し訳ないことをしています。
非難する意図ではなく、綺麗事って思う感情ってどういうときに生まれるものだろうと考えていて、そのコメントを読み込もうとすればするほど、心が痛む自分に気付いて…。
そこから何で心を痛めるのか紐解きたいと思ったら、慰めの綺麗事との響きが、言葉を放った方を切り捨てるような響きと解釈しているわたしに気付き、そこから慰めるってなんだろうと考えが移りました。
もしかしたらそのコメントの方に投げかけられた、生きてるだけで偉いよとの言葉は、その場だけの取り繕う言葉のように聞こえたのかもしれない。
もしかしたら、実際は言われたことはなくって、ただ生きているだけで偉いよと、聞いたことのあるその言葉に対して、釈然としない何かがあるのかもしれない。
そのコメントの人の気持ちにわたしは今、寄り添っていないんだと思う。
いや、同意はしないだけで、同調してみようと気持ちを寄せてはいるのかもしれない。
わたしは、どうしても慰めの言葉と綺麗事をセットで遣うことはできない。
自分の考えを持つのは大切かもしれなくとも、それを今こうしてブログに書くのはどうなのだろう…。
また悩み出しました…。
でも改めて考えても、慰めるって神聖な感情を伴うものだと思う。
それは言葉ではなく、見守ることであっても。
わたしは先ほど書いたアーティストの慰めてくれたその記憶が、そしてその後の力強いメッセージに、もう少し生きてみたいと思わされるほどの力をもらいました。
今でも感謝しています。
人の命が明日に繋がるって、目に見えない出来事も含めて、多くの存在と、たくさんの活動である生命の導きだなと感じます。
わたしが今こうしてブログを書いている人生を選択していること。
そのアーティストの方の言葉はもちろん、他にも様々な導きがあってこそ繋がってきたこの人生。
この頃はひとりよがりな思考に陥っているけれど、YouTubeのコメントの方にとってはもしかしたら、伝えたい大切な部分はそこではなくて、他の言葉を強調したいがために引用しただけにとどまるのかもしれない。
それをわたしがくどくどと考え、勝手に心を痛めているだけ…。
でも、そういう性格なのです。
きっと昔から。
今までもたくさんの言葉に思いを馳せて心を痛めてきた。
こうしてブログにまとめることなく、ただ心痛めたままにして、その痛みを積み重ねていって傷を大きくしていったこともあったのだと思う。
言葉を受け流すことも苦手だ。
とくに、多くの人が読む場のコメントで、良かれと書かれているはずの文章が、他の人は心を痛めている可能性があると思うと、どうしても心がざわつく。
気持ちを消化させたいからと長々と書いてしまってごめんなさい。
読んでくれてありがとうございます。
でも…読んでくれているあなたを、わたしは今も傷つけているのかもしれない。
皆がいいと思う文章は書けなくとも、わたしの書いた言葉で心を痛める人がこれ以上一人でも増えていかないようにしたい。
もしかしたら、わたしが100キロ以上ある自分自身を美しい存在と言うことで、何キロであれ自身のことをそうは思えない方にとってはその言葉が重く負担となり、心を痛めた人もいたのだと思う…。
ただここ最近は、本音を言うと自分の存在の小ささを思うことも多かった。
何にももっていないことは身軽とも捉えられる。
でも、わたしは今まで何をしてきたんだろうと考えたら、自分の人生に必死になっているだけで、周りをいつも振り回していることが多い。
それで何が使命だ。
何一つとしてできていないし、わたしは何も持っていない。
と、否定の感情が寄り添っていることを気付いていました。
とことん、この否定の感情をノートや紙に書いてみるかな。
ない、というのは同時にある、ということでもあるから。
それに、生み出すことのできる可能性がそこにあるだけ、加える要素があるだけでもあるから…。
どんなことも、どんな感情も、悪いものと切り捨てたくない。
こんな長く似たようなことばかりを書いて並べていてごめんなさい。
もう書き終えなきゃ。
でも、ごめんなさい、と書きながら、心はいまありがとうと言いたくて、泣きそうです。
ここまで読んでくれる方がいるのかと想像したら、感謝したくなって涙が出てきました。
精神的に大丈夫かな、と思ってしまいますよね。
今日は、この後お昼過ぎから月1でお願いしているボイトレという名のSESSIONがあります。
いつかこのブログの中で、SESSIONをしてくださる先生の話題もしたいなぁ。
長くなってしまうのでそれはまた後日に☺️
あなたの今というその一瞬は、わたしにとっても奇跡です。
宝石のように美しく、清い水の流れのように透き通り、日の光を反射して輝くような一瞬を、あなたはどんどんと積み重ねていくでしょう。
あなたの人生の中の闇は、漆黒の艶を持ち、決して黒の闇の中に留まり続けることなく、その黒の中の輝きに気付くことでしょう。
黒を別の色に変えるのではなく、黒の色がどうやって作り出されていったのか、あなたはその黒が出来上がるまでの色と色のかけ合わせに気付いていくでしょう。
黒という色の、その細部にはたくさんの色があることに気付いたあなたは、その闇の黒へ感謝をしているでしょう。
その感謝は祈りの言葉に変わり、あなたを光の道へ向かわせるでしょう。
あなたが歩む光の道。
きっとあなたはわたしの仲間かもしれない。
100年後、わたしは地球には生きてはいないけれど、永遠なる魂を持って、いつの日かあなたと答え合わせをしてみたい。
マリー
コメント