おはようございます、マリーです🌱
体重の記録、いまもゆっくりと進めていて、今日も載せることはできそうにないけれど、体重は減ることはなくいます。
ダイエットの記録としてこのブログを知ってみてくれたかたもいますよね。
わたしは100キロ以上体重のある時期も数年あったり、いまだって92キロ前後あって、女性としてはとても重い体重と、大きな体型でいます。
でも、ちいさな心の崩れをパテで埋めるようにしながら生きてきたと思う。
ある時期は過食と拒食や嘔吐を繰り返して、鏡の自分を見ては細くならなきゃ、痩せなきゃと自ら心を脅迫しながら生きていたこともあった。
そのときのわたしはとてもその自分を認めもできず、そのことを楽しんでもいなかったはず。
でも、ネットの普及やXという誰でも自分の意見を伝える場を気軽に持てることのできる今。
つい先日も開いたXにでてくる言葉にも思い、そしてその当時のわたしへも声を届けることができるなら伝えたい想いがあります。
それは“生きていく過程を無視しないで“という想いです。
憧れってとっても大切な感情で、ひとつ自分の生きていくための道標のようにそのことが働いてくれることだってある、本当に大切にしてもらいたい感情です。
でも、その憧れと出会うことは、頭が働くことではなく、心が動いたということ。
感情が動き、知らない新たな世界を教えてもらえたかのような感動がわたしはあります。
もちろん、憧れ方によっては心への衝撃という形だってあるはず。
でも、たとえ心を崩したという体験を通して憧れと出会ったとしても、そこへは気軽に触れるようなことなどできない自身にとっての大きな存在であるように思います。
ダイエットなどをしていたりすると、そこには憧れる体重という数字、それは目標という形である人だって多いとは思うけれど、数字に限らず自分の変化の先を憧れに近づけたいという感情があるとも思っています。
今日のブログの内容は以前にも似たようなことを書いていると思うので、同じようなことを言っているように思えるかもしれません。
SNS、ネットなどでも、問題提起という形でこういう姿であるのが望ましいというメッセージを目にし、読むことがあります。
そういったとき、当たり前のようにその問題の解決策がそこにはあります。
それはとても親切である場合も多いと思う。
でも、人として生き、抱えている悩みを悩んでいて、それを良くない状態であると捉えること、そこから危険性を感じます。
そして、わたしが見かけたそうした情報には、問題を提起し、そこへの解決へ導く方法が書かれていることが多いです。
わたしがそれらの多くを親切で片付けられない理由には、そのメッセージの対象となっている人から悩む時間を奪うということに配慮を置いていないと感じることがあるからに思う。
悩んでいることに共感が必要だとはまったく思いません。
その人の悩みはその人だから悩めること。
思いを寄せることを必要とはしても、気軽に共感という形を示す必要はないように思えています。
悩むということはとても大切な時間です。
たとえその人の人生を大きく崩し、命の形すら変えてしまうような悩みであっても、その悩みや問題というものを他者が悪だと決めることに、わたしは疑問を持っています。
その人にとって大切な体験をしていることを、他所から見てそれはよくない今すぐ取り除こうという姿勢を感じる言葉が多いように思えているのです。
そしてもう一つ感じるのは、それは問題提起している人から見ている世界だということがどこか抜け落ちて言葉を紡がれているように思えてもいます。
もちろん、自ら悩みそれが快方へとなり、その貴重な経験を同じ悩みを持つ当事者へ救いになればという精神からどこか必死さを感じるようなメッセージを読む機会もあります。
わたしが書いているのは、そうしたメッセージとは違う、先に書いたような“悩む時間を奪うということに配慮を置いていない““問題提起している人の視点である“ということが書いている本人が自覚していない場合のメッセージを指しています。
とくに後者の「問題提起している人から見ている世界だということがどこか抜け落ちて言葉を紡がれている場合」の、わたしの思う危ういと感じる点は、それが“まるで全てであると認識していることが多い“からです。
わかりやすいことでいえば、たとえば国籍などから話をすること。
『日本人はこうであることが多く、自分は海外の人と接する機会が多々ありこうした姿勢を海外の人は持っていて素晴らしく、だからこそ、そうした視点を持とう。』
という言葉があるとする。
わたしの書いた通りから思うことでいえばきっと、それは見ている人の視点の人類であって個々へと思い馳せることができていないと捉えられるかもしれない。けれどわたしが書きたいのはそうしたことではありません。
例えで書いたことでわたしが問題とすべきと思うことに、書いた本人が“問題を取り誤っている“ことを自覚していない場合があるからです。
そもそも大体の問題提起は書いている当人にとって問題であることがありますよね。
きっとそれは書いている当事者も理解し、だからこそ見える視点で書かれています。
でも、その問題はあくまで書いている人が捉える世界からした“問題“です。
そこをよく自覚していないからだとわたしは思います、「問題」と「解決策」を良かれと書いてしまうことを気軽にしてしまう姿勢が起こることが。
わたしはそうした文章に触れる度に思います。
優しくないな、親切でないな、と。
それは傷付く人を発生させる恐れを認識していない善意であるから。
誰もが問題が起これば、悩みがあれば、辛い。
人の悩みである問題は解決することが最善でないことだってある。
…そもそもでありました。
『悩み』と、『問題』は違いますね。
わたしもそこの意識が抜けて書いていました。
確かに、問題点であれば解決策は述べてもいいはず。
でも、SNSで見かける解決策の中には、問題という名の悩みを解決してあげたいという想い、そこから派生して、こうあるべきだという姿勢を伝えていることもあります。
だからこそ、『問題を取り誤っていることを自覚していない場合がある』とわたしはきっと書いたんだな。
「悩み」と「問題」を切り離せていないから、わたしはそうしたメッセージに対して少し怒りを含みつつ傷付いているんだろうな。
でも、本当にそうなのかな。
何度も、それを感じた文章を今読んでいる。
違うかもしれない。
わたしが悲しみながらも怒りを含み感じていることは、最初に書いていたとおり、“生きていく過程を無視しないでという想い“があるからだ。
わたしは、悩んでいる人に悩ませてあげたいんだ。
そしてできることなら、一緒に悩みたいんだ。
でもそれだけじゃない、そんな願いは小さなもの。
やっぱり、わたしは悩みはとてもとてもその人の大切な要素だと捉えていて、それを美しいと感じているんだ。
だから、どこにでもあるもののように触れられてしまうことが嫌なんだと思う。
わたしは悩みは宝物だと思う。
書いた通り、問題が起これば、悩みがあれば、辛い。
でも、わたしから見たらその人への大切なできごとだと思っている。
それを誰かが悪だと捉え、排除してあげます、という姿勢が悲しいんだ。
長くなっているけれど、わたしは昔、確かに自分の体型も体重もひどく嫌っていた。
でも今、そんな過去のわたしを今のわたしが愛してあげています。
誰かの歩みを、その人の歩調を、わたしはその音を美しいと感じるかのようにありたい。
そうであっても、その音が消えかけそうであれば、わたしは駆けつけることを選ぶ。
わたしはその音がわずかでたとえあったとしても、ずっとずっとあなたの美しさを知っているということをずっとあなたへ伝え続ける。
わたしは、占い師に戻ることになっています。
家族は先月亡くなった父しか仕事をしていなく、亡くなる直前まで仕事の話を父はしていました。
今年の1月だったと思う。
もう緩和ケア病棟で半年近く水も飲んでいないのに、家族のために頑張るのは当たり前だ、と言っていました。
そんなずっとわたしたちのために働いてくれた父がいなくなり、新たな引っ越し先での家族での生活。
わたしは占い会社を離れたあと、いままで紹介で最初は1000円をいただき時間問わずいて、2回目からは無料で占い師を続け、収入というより交通費に充てることができたらいいな、といった生活でいたけれど、また会社に所属しての占い師をします。
たくさんの悩みに触れる。
そんなとき、占い師としても、わたしとしても、失いたくない精神として、今日のブログの想いを大切にいたい。
今日、父とはまた違う形でお別れがある。
頑張りたい。
お父さんが信念を通し、ずっと守ってくれたんだ。
これからもきっと。
わたしは、考えることをやめたくない。
生きていたい。
マリー

