おはようございます、マリーです。
久しぶりのブログになってしまいました。
今日はダラダラともしかしたら長くなってしまいそうだなと、こんなことを書きたいなということを今浮かべています。
この一週間ほど、気力が頭上にぷかぷかと、それを手を伸ばして掴んで頭の中に戻したいような…心ここに在らずとよく言う言葉とはまた違う…でも一言で書くと無気力の状態でいました。
そして睡眠過多から眠れない時期に移り変わり、ぐっすりと眠れない日が増えました。
考えられる要因があれば、食事をしっかり食べるようになったことはあるのかもしれないけれど、そうした関係性を考えずに、そうした時期もあるものだよなと軽く留める程度でいたいなと思っています。
食事をしっかり食べるようになって、体重は93キロ前後まで増加しています。
とくに今日は今月で一番重い体重でした。
なのに、なんだかとても満たされた心でいることを感じています。
書くのが遅くなってしまいましたが、体重の記録は載せられない今日のブログになります。
大きな変化ではまったくないのだけれど、石の影響をなんだか感じるような一週間でした。
ブログにいっときは載せようかとも考えなおし、予定していなかった自作のブレスレットの写真も用意はしたものの、載せたくないと考えて作成したものだからと言葉だけになってしまって申し訳なく思うけれど、先日、石のブレスレットをつくりました。
お店で一粒ずつ選んで、組んだいわゆるパワーストーンブレスレット。
いまも腕につけてブログを書いています。
なんだか最初の日からやたら優しいものを感じるなとは思っていたけれど、力がどこかへ抜けていくような、頭にいつもあった熱を持った重たいものが溶けていく感覚があります。
だからといって柔らかい色合いの石で組んだわけではなく、効果はまったく無視をして、この色を身につけていたいと思う配色にしました。
何かの状態で居る自分を描いて願いを託し作成していないからか、余計な力の込められていないブレスレットになったのかもしれない。
ずっと見ていたいと実際にずっと見ているくらい気に入ってます。
数日が経ってわたしのエネルギーとも馴染んだような気もしています。
すごく当たり前のことをこれから書くんだろうなとは思っているけれど、今朝、朝の日記や手帳、モーニングページのいつもの作業を終えてブログを書く前に顔を洗う時。
いつもなら、「どんな人へも愛を持って接することのできる表情でいられますように。」とか、今日の自分はこんな姿でいたい、みたいな願いを込めて顔を洗うことが多いのに、今日は水に顔が触れた途端、「自分の人生を愛していきたい。」と、決意ほど強固なものではない、柔らかな、この先の確信にも感じるような思いが言葉として出てきました。
そしたら、わたしはもう既にこの人生を愛し始めているんだなとも思えています。
でもほんとに当たり前だけれど、愛するって多くを重ねた先にあるもので。
自分の人生を愛するって言えば“良いこと“だと思うんです。
その逆は“良くないこと“になる。
でも自分の人生をとことん嫌いになってみようって提案することは他人にはできないこと。
わたしだから、わたしの人生をとことん嫌いになることができる。
浮かんでくる「嫌い」。何万回と同じセリフばかりの毎日を繰り返してきて。
いっつも嫌いだって言葉ばかりでいたからか、嫌いの言葉の重い存在感が失われていったのかもしれない。
今はその時期に感謝だ。
自分の人生を愛していきたい。その欲求の真となるもの、核心の部分を捉え続けたいという願いも、今は考えたいと思うこともできる。
アドバイスとか、提案とか、人からのそうした助言が人生を動かすこともあることを理解した上で。
心が弱っている時は特に。
自分ではない世界からの提案に大小はあっても、雷のような衝撃を感じなければ、だいたいは自分の人生の選択外のことなのかもしれない。
選挙も含め、SNSも、人との付き合いの中でも、多くの〜したほうがいいって言葉って、渦の外にいればそりゃ見えてるものだし指摘にも近い感覚で言えるけれど。
なんか大きなこと言っている人が、もし、もしも目の前に存在としているとしたら、その真剣さを感じ取る力だけは失わないでもらいたい。
弱っている時に聞こえてくる優しい言葉の中に、相手があなたをコントロールしたいという欲求がないものならいい。
でも、アドバイスとか提案って、『わたしはあなたにこう生きていて欲しい』っていうような欲求が混ざるものもあるから。
なんでこんなことを書くのかと言うと、それは善の活動だと信じている世の中が現在だと思っているから。
国民のため、友達のため、あなたのため。
みたいなことを言える人は、その対象の人とは違う世界線を生きている人だとも思います。
愛の反対は無関心だと、どこかで聞いたことのある言葉だけれど、無関心の反対はじゃあ愛なのかと言われたら納得できない人が多いと思うし、愛の反対は無関心ではないんだと思う。
たまたまかもしれない。
小学生の頃も、星の観察を祖母の自宅の前でする時間とか、授業の植物の観察絵日記みたいなものが好きだった。
観察すること、注意深く見ることは多くの気付きをもたらすものだということを、体感として幼い頃から持てる環境と自分でいたからだとも思う。
人の顔色を伺うこと、昨日との違い、その心を読み取らねばと必死だったこと、手相を学び始めたのも十代はじめだったし、生きる上で観察眼を養うことが不可欠だった。
無関心とか、興味がないと突き放すかのような言葉が存在しているけれど、興味って無いのが当たり前なのに、どこか人は興味ってあるものだとその前提でいることも多いと思う。
その上で、興味を持ってみよう、観察をしてみようと努めることも愛でもある行為だと思う。
だとしたら、やっぱり愛の反対は無関心なのかもしれない。
でも、無関心ってまるで特別な言い方をしているから、無関心の反対が愛ではないと考えるんだと思う。
全ての人間関係で、目の前の人をコントロールしたいっていう欲求をどれだけ今の自分は持っているか、その自覚を持つことから小さな世界の見え方が変わって、それが社会を変えると信じたい。
自分の人生を愛していきたい。
この願いは自分の人生に興味を抱きたいっていう欲求であって、それを叶えることは無関心に気付くことから始まるように思う。
いくらでも許せない怒りを造りだす社会の見せ方は存在するから。
太っている自分は許せないという心をもし、あなたが持っているとしたら。
もしかしたらどこか無関心が造り出した幻影にとらわれているかもしれない。
観察することは気付くことだと書いた。
発見すること、気付くことは痛みをともなうこともあるけれど。
それでも隠された、棘を抜くきっかけでもあり、痛みの手当てをする機会を得たということだから。きっと大丈夫。
それとまた、自分の怒りとつくられた怒りを別のものであると仕分けする癖も、観察眼を養いたいという願いと同時に持っていたい。
誰かの情報から怒りの心が生まれた時。
自分が何かに対して怒りのエネルギーを抱いた時。
前者をコントルールしようとすることを社会は促すことも多いけれど、それは後者の怒りの積み重ねを観察せずに、視点を己から移してしまっていることも多いことがある。
でもそもそも怒りのエネルギーは命の活動においては減退感は少ない。
もし、鬱のような、怒りの感情の無い世界に身を置き、命の感覚すら無い心を抱えているとしたら…。
そうだとしたらわたしは何も言うことはできない。
それはその人の世界に必要だから見続けている自分でもある、ある意味で生きている観察が闇と同時に歩いていることかもしれない。
そうした人への言葉はコントロールを含むことが多いから。
プラスのエネルギー過多にはひとつひとつを見ていって探し出して取り除くこともできるけれど。
陰の極みだったり、そうした傾きがある人へは、与えること、ましてやプラスのエネルギーを伝えることはできない。
でも、そうした陰のエネルギーに傾いている時こそ、自分へベクトルを持ちやすい時でもあると思うから…。
その過程が、もしかしたら自分を愛することの一部でもあるように思う。
とことん自分を嫌いになってみること。
陰のエネルギーに身を置き、静かな轟音の世界に生きることだって愛だと思う。
それは興味とは呼ばないかもしれないけれど、興味を持つ前の、観察するための素材のような部分を担うことになると思うから。
わたしは自分の人生を愛していきたいな。
マリー