こんにちは、マリーです。
2024年5月19日(日)と5月20日(月)の体重記録です。
↓画像はスクリーンショットをまとめたものです
ここのところ目に入る情報を通して考えさせられていること。
幹と枝、そして葉や花、それらのどこをわたしは(あなたは)見ていますか?ということ。
いままだ考えがまとまらず、わたしの視点も根幹と向き合えていないとも思っています。
だからブログを書きながら整理したい。
正義と悪者。それらを定めると、物事の根幹を見ることが難しくなるのかもしれない。
前回のブログも、意見を持つことでわたしが誰かを裁くことをしているのではないか。
そうだとしたらわたしの本当にしたい活動とは反しているのではないか。
とても考えます。
わたしがしたいことは、排除することではない。
ひとりひとりの精神の中にある、愛にまつわる思考に対して思い起こし、そこから枝分かれのように広げていくようなことがしたい。
だからといって誤解を避けたいのは、前回のブログは納得が難しい疑問が残ってしまったところがあっての言葉。
とはいえそれは片方に寄った意見であり、それこそわたしがしたことは排除の姿勢になるのではないのか。
考えるきっかけとなった2つの情報について、詳細は控えつつ書くことにします。
一つは“転売“と呼ばれていること。
それは公式などでも認めていないチケットの転売ではありません。
目に留め考えるきっかけとなったのはグッズに関するものでした。
グッズをサイト上で販売することに関して、その行為をした人、それを購入した人への言葉を数多く目にしたことです。
わたしの意見を書くとそこから善悪が生まれてしまうのではと避けるべきなのか考える。
誰しもが同じ感情で物を捉えることはできない。
けれど手放すということはその人にとって縁が離れたこと。
それを必要とする人の手に渡ること含めて、その双方のみを悪としての言葉にまず疑問が浮かびました。
じゃあどうしてその販売を行うサイトについては意見がないのだろう…と思ったのです。
ただそれこそ感情も合わせて思うと複雑になっていって幹を捉えることが難しい。
また話の方向性は変わるのですが、意見を見ていた中で、自分なら死んでも売らないなどの言葉も目にしました。
責任の持てない偽りの言葉を遣うことを公に発言することをわたしの中にいまは許可ができないからなのかもしれない。
それに生死のことに関する言葉には意識を持っていかれます。敏感になります。
命と同じくらい、自分の命と同等の想いを持って物と向き合い、生涯をかける、そういう生き方のできる人がいる。
そういうことを否定したいのではないです。
でもわたしは本当にその発言をした人が命と引き換えにしてもその物を手放さないのか…ととても思い悩みもしました。
そんなの例え、それだけ大事な物としての意味。それは理解したいけれど、だからといってやはり生き死にに関する発言を例え話としてすることも、それで重さを表現したいとする思いも、わたしはどこか悲しさが込み上げます。
今日のブログは心の整理をしながら書いています。まとまりなく、あっちこっちと向いていること、読んでいて疲れますよね。
読んでくれている、あなたの中にも言葉が生まれているかもしれません。
その言葉の中にわたしの“間違い“を感じるものもあるかもしれない。
正しさでいったら、一直線にそれを捉えることや見つけることはできないと思っています。
正しさを捉え続け、多角的な見方、あるときは違う対象へと視点を移せる柔軟性も大事になるような、心眼を養っていくことで育てていく感覚だと思っています。
2つの情報とはじめに書きました。
もうひとつはどうブログ内に残していいものか…と悩みますが、守りたい存在を守るためにその悪循環を作っているだろうと思っている存在に言葉を続けていた人に対し、おまえはそれで本当に守りたい存在を守っていることになるのかと、気づかせてくれたというものです。
わかりやすいように抽象化しつつ表現をすることができない。
でもこの気づきを作ってくれた存在や、その言葉に自分の姿勢を省みて変化しようとする姿。
大きく心を動かされていました。
一つ目の情報に戻ります。
そういえば、みんな同じような意見を持つ言葉のみが並んでいたことを思いました。
みんなが同じ意見のはずはなくともあえてわざわざ異論を伝えて乱すことをする必要はないから。
それはそうか。
でも、だめ(駄目−囲碁用語を語源とするみたいです)ってなんでこんなに簡単に口から出やすいのでしょうね。
親が子に、指導者が生徒に、人が人に。
わたしはいつもなんでだめなのか、その理由を知りたくなります。良くないも同じく。
突発的なときは仕方ない。
危ないときにだめ!と止めるように。
だめや良くないはもしかしたら枝や葉の部分を指して、やはり幹が存在しているはず。
でも幹をどれだけの人が捉えようと努力をしているだろう。
わたしだって普段日常的に考えているわけではないけれど、そうした言葉を耳にしたり目にすると考えたいと思う。
転売はだめ。喧嘩はだめ。いじめはだめ。など、それについて転売側と購入側、いじめる側といじめられる側、双方に思い馳せる必要があるとも思えない。
だめはきっと葉で、枝がその双方で、幹を捉えるときに辿っていくことも道筋を見つけるときに大切なときもあるかもしれない。
でもなんで、思い馳せる必要はないと思ったんだろう。
と思ったとき、幹はワンネスのような、一つであるのかもしれない。
幹を常に捉え続けたいと願いながら思考を続けることは、ワンネス意識に繋がるのかもしれない。
だから幹を見つけたいと模索の積み重ねが大事に思えます。
そう思うと、双方に思い馳せる必要を感じない理由に、そこからまた善悪の基準が生じると思ったからなんだろう。(根幹を探すために想い馳せることを必要としないのであって、思いを寄せる必要がないとは思いません。)
そこまで考えた今だから、あらためて一つ目の情報に向き合いたい。
転売する人がいた。購入する人がいた。そしてそれを善しと思えない感情がある。
そのいわゆる枝葉に対して捉えようとすると、善し悪しが生まれてしまう。
じゃあそのサイト側は幹になるのか…きっと違う。
サイト側を責めて排除をしたとしても枝はまた生み出されるだろう。
じゃあ幹は何か……きっとそれは目には映らないもの。
ワンネスが創り出す一本の幹。
その幹は言葉として表現することもできるものではないのかもしれない。
でも、その大樹の存在のような、この地球にあるその根幹となる存在をこの先も考えていたい。
見つけたいと心の目線を向け続けていれば、どんな情報にも揺れ動かされないのかもしれない。
マリー
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