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マリー
30代後半。
日課にしている体重記録と日々の思いをブログに書いています。
精神的な病による入院・再発歴あり。
現在は服薬管理のもと、安定した日常に。
少しずつ唯一無二の自分の存在を愛おしくなるような、また自分自身を見つめる時間になるようなブログにしたいと思っています。
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悪意は私がつくりだし、その先に仲間をみる

こんにちは、マリーです🪐

まずは体重の記録から。

2024年11月19日(火)、20日(水)、21日(木)、22日(金)の記録です。

↓画像はスクリーンショットをまとめたものです


どうか、わたしが、わたしの感情と、悪意に飲まれることなく、書くことができるように、支えてください。


人との出会い。

作品との出会い。

いままでの自分の体験や、得てきた知識を擦り合わせながら、その対象を比較して、分析をすることが人はある。

似たものを、そこに見つけたいとする。

そうしたことで見えてくるもの、映し出されるもの、解像度の変化もあるのだろう。

否定したいのではない。


でも、その対象をどこまでも、純粋に、好奇心で楽しむように、観ることができたらいいなと願う。

いつも、いつまでも、その対象へ初めましてと挨拶をするように。

それはたとえ先月に会った人でも。

昨日も見た物であっても。

その見方を常に自分に強いるわけじゃない。

ただ、でも、わたしはそうでありたいんだ。


そして、わたしは今日のブログを書くにあたり、どこまでも、自分に問う必要を感じている。

『これは、わたしの感情なのだろうか?』と。


もしかしたら、受けいれてもらえないことを書くかもしれない。

わたしは、相手の感情が自分の心の中に入ってきやすい。

たとえ相手は努めて平静に話をしていても、その心に怒りがあれば、わたしの心の感情にも怒りが映し出されるときがある。

だから、わたしはずっと聞いている。

「それは、わたしの感情なの?」


変なことを書いている。

憑依体質なんて、そんなことを言いたいのではない。

わたしは憑依されているわけではないと、いまだからこそ、自分を信じることができる。


もちろん、わたしの心にある怒りの全ての感情が相手のものなんて思っていない。

ただ、だからこそ、丁寧に見たいんだ。

いままではそれがわたしの感情だと疑わずにいたから。


最近書いているブログを通して、教えられた。

わたしが描きたい対象を心に描くと、その世界が広がっていることを。

だから、今日、わたしはある種の、言葉にすべきではないのかもしれないが、でも本当に“ある種の“悪意と向き合うからこそ、どこまでが自分の感情か、それは対象から得た感情なのかを丁寧に見ていって、わたしの心から剥がして、今日、返すんだ。

相手へじゃない。

何を言っているんだろうと思われるだろうが、わたしは悪意を宇宙にかえす。


話をずらすが、ツインレイという言葉がある。

以前ブログに書いたこともある。

その時のブログでは、統合と呼ばれるものについてわたしがもらっていた言葉を書いていたけれど、その日はわたし自身も言葉や説明の不足を感じていた。


その段階では、ツインレイは「神と子」であり、神であることに還っていく者と宇宙を成す存在とが融合し、この世界を創造していることを“知る者“である。と書いている。

と同時に、統合のことに関しては、己の中の神に気付き、自ら生み出したものの存在の尊さを認識する者と、子は自らが宇宙であることを思い出しそこに安心を抱き、双方のそれらの一致を統合だと書いていた。


ただ、どこか不明瞭をそこにわたし自身が感じていたし、それが全貌ではないことも感じていた。


それ以降、だんだんと、宇宙から生まれた存在が神であることを感じていた。


そして、昨夜、統合というものは、「神」と「子」の分離した世界線ではなく、宇宙の存在へとその者らが還ることだと、わたしはそう受け取った。


悪意を、宇宙へお返しする。

それは進化だと思う。

人類の進化になってきたはずだと、今はそう思う。

だから、今から向き合う対象の中にそれを感じたら、わたしはその感情を丁寧に、捨てるのではなく宇宙へと返す。


その繰り返しにわたしの命の糸がここに存在していると思った。


わたしは、統合失調症だ。

大切な、愛しくて、この世界に代わるものなど存在していない、わたしの家族も統合失調症だ。

その家族が、先月、調子を崩した。

いつもは家族と付き添いの人とで行く精神科に、先月家族の代理でわたしが一人行った。


書いていく前に、心構えを書く。

問題点を訴えたい。被害を訴えたい。そうした出来事と時に人は遭遇する。

ただ、その被害を訴えることが解決になるのかと、わたしはどこまでも自分に今、問う。

きっとそれは違うことを、わたしは分かる。

いつも通る道ではない、新たな方角へ歩み出すみたいに、もっと違う道をそこにわたしは見つけたい。

だから探す。

事実と、感情を分けて、大事な、本当に大事なところを探して見つけたい。


『体験』は、わたしが見た『事実』。

それは案外、わたしにとって、同じような形をしていて、同じような顔をしているかもしれない。



再び会った先月と同じ医者は言った。

先月、わたしではなく、いつも同席している人が来てくれたら話は変わったかもしれない。

と、わたしにではなく、いつも同席している人に言った。


その人は、自分は卑怯だったと、自分は先月ここに来られなかったと自分を責めてわたし達を守りながら泣いていたのに。

泣くことのない人が、泣いている。

なのに、医者はそう言うんだ。

あなたが来たら変わっていたかもしれないと。

一度ではないその言葉を、わたしにではなく、その人に向かって。


恐ろしいものが自分の心に渦巻く。

これは、わたしの感情だ。


そして、医者は同時に言う。

わたしは当事者の家族だろうが、関係性はわからない。

先月初めましてのわたしの訴えである話だけで話はできない。

だから、もし当事者といつも付き添う、その人だったら状況が変わっていたと。


そこに“そのわたし“はいるのに、一切の視線は向けずに。

わたしの話を、わたしではなく、その人に話す。

そして意向は一つに、いつも同席する人からまとめてもらいたいと医者は話す。

先月のわたしの話は全てまるで無駄な話なのだろうと思うしかない言葉が医者から出る。


意向なんて、当たり前にひとつだ…‼︎当たり前すぎる、一つの願いだ。


家族は数年前、強制入院をしている。

同じ、その医者の、あなたが診ているのに、家族は強制入院をしたんだ。


先月の家族はその入院前と酷似していた。

だから、わたし一人でその家族のことを、病室で医者に訴えた。

必死に。必死に。


医者は、なにかあれば、警察を呼んでくださいと言う。

わたしは言う。

医者がいるのに、目の前で、わたしがあなたに助けを求めているのに、警察を呼ぶ?警察は動くのですか?と。

医者は動くという。

でも、それは何かがあったからですよね?
今なら、その前に、医者であるあなたが止めることができる可能性があるから、わたしは訴えている。それでも医者であるあなたではなく、警察を頼れと言うんですか?


そうですと続く言葉には、救いを求めた祈りは折られた…けれどわたしはまだすがる。


強制入院はわたしは嫌だと伝えると、本人の意向がないと入院の話はできないと話す。

意向があれば強制入院ではなくなるのなら、じゃあ終了の時間までに本人をなにがなんでも連れてきますと訴えた。


“これ以上私と話をしてもどうしようもない“と、何度も、それはまだ会話が始まったばかりであった時から、わたしの話は求めていないと言いたいのだろう。その医者はドアを目で指す。手でも促す。


そもそも、最初は、わたしは薬の調整をしたいと、医者に話をした。

こうした家族の状況なんですと、だから薬を、と話をしていた。

医者は薬の情報は個人情報なのでお話しすることができないと拒否をした。

それは家族であると訴えても。


医者は、わたしの言葉に耳を向けず、視界にすらも、先月も、二度目ましてはさらに映さなかった。


しかも、あれだけ本人がいないと話はできないと先月言っていたのに、今回はいつも同席している人がいれば話は変わったかもしれないと…?

それを先月言ってくれたなら、本人を連れてこようとせずにその人をここに連れてきたのに??


ああ、怒りの感情に飲まれないように…。


これはわたしの感情だ!


そして……これは医者の悪意ではない!!


書いていて、思えた。

悪意は、わたしがつくったものだ。


その医者の感情を知ろうとは思わない。

感情を、相手の気持ちを想像して、造る無意味さをわたしは知っている。

ただ、この相手の気持ちを想像するという言葉は、思いやりからのその行為とは別のもの。

あくまで、相手の感情や、気持ちを、わたしが都合よく造ること。


じゃあ、わたしが悪意だと捉えたものはどこから来たのだろう?

医者のものではなさそうだ…?

だとしたら、やはり、どこまでもわたしの目の前の景色と体験は、わたしが世界を描いていることの証なのだろう。


いま、だいぶ気持ちが楽になっている。

きっと、悪意の存在の根幹を気付いてあげることができたから。


もしかしたら、本当に、わたしたちが見ている現実の問題点というものの中の、悪意と呼ばれるものは、自覚を持って自分自身で見つけ出さなければいけないものなのかもしれない。

それが、自分の中の悪意と、相手にも存在していておかしくない悪意との融合を阻止し、私を真に救うことになるのかもしれない。


たしかに想う相手によってすぐに、わたしの心の中の景色と感情は変化することがある。

それは弱さでもある。


でも、わたしは相手の感情が心に入って来たのではなかったんだ!

それを最初から書いていた。

“憑依体質ではない“と。

わたしは憑依をされて、自分の感情と心を乗っ取られたのではないことを、知っていたんだ…。


もしかしたら相手と、心底、話したいのかもしれない。

どこまでも、「どうして?」の掛け合いをしたいだけなのかもしれない…?


もしかしたら、診察室での話とは少し違うが、目にする情報の中にも当事者を置いて話を広げることに、怒りと疑問があるからかもしれない。


そしてどうして共感者をつくろうとするの?と。

向き合うべき存在を、見て…!!


「共感者」は、わたしの思うブログにも書いてきた「仲間」とはまた違う。

仲間は手を離さない。

でも最善を知る仲間は助けないことを選べる。

仲間は知っている。

必ずそれを越えることを。


それは祈りの可能性を知りその願いの力でお互いを守る関係。


あなたは共感者を探すことを手放せる。

わたしが、できた。

そしてこれを読んでくれている、あなたは仲間だと信じたい。


絆は、目の前にいなかろうが、いつだってわたしの心を動かす。


あなたへ。

知っているこの世界を隣の人に話をしてみない?

その物語を、話してみない?

起承転結なんて捨てたわたしたちの話をしない?



最後に、昨夜、わたしはあるものに会っていた。

それは現実ではなく。

想像をさせるのは申し訳ないと思っても、今は言葉にしてはいけないものだと思っていて伝えられなくてごめんなさい。


わたしは、ある景色をひたすら否定していた。

その景色はどこか窮屈に思えていたし、その世界を知らない自分を生きていこうと、その景色は否定していた。

でも、地球でしか経験できないもので、地球だから観ることのできる景色であることをなぜか初めて昨日知った。

それは急に世界が広がった感覚だった。

なのに美しくなどなくて、でもどこまでもわたしの心を躍らせるものだった。


わたしはこの地球の仲間のみんなが好きで、優劣の存在がないずっと繋がるそれは地球のようだと言いたいけれど、それは球体ではなく、やはり宇宙を共に知る仲間なのだろうと思う。


終わりなにか言葉が足りないけれど。笑



マリー


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この記事を書いた人

30代後半。
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