こんにちは、マリーです。
体重の記録はないので、待っていてくれていたら今回のブログには載せられていなくて申し訳ない。
あたりまえのようになっているような話を、ひとりごとのように書きたくなって書いています。
今、ブログを書きながら音楽を聴いています。
4月に引越しをしていて、それまでの環境では主にApple MusicをBOSEのスピーカーで流すか、iPadからそのまま流して聴くくらいでいて。
音量も大きい音が苦手で、音量が大きくなるとゾワっとしてしまう体質です。
でもLIVE会場などの音楽家のかたの生演奏だったり歌は大きな音量でも大丈夫でいるので、たぶんは音質の問題もあるのかもしれません。
引越し後の今、音楽を聴く環境も変わりました。
BOSEのスピーカーはほぼお休み中。
代わりにONKYOのスピーカーと、同じくONKYOのCDレシーバーでPCからApple Musicを聴いています。
PCとはいっても、すんごく古いMac。
それでもこの環境で耳に届く音がすごく心地よい。
けれどわたしはいっつもおんなじ曲をリピートして聴く人間なので、せっかくここ最近になってBUMP OF CHICKENのみなさまの音楽を好きになっても新曲の「I」ばかりを聴く日々。
毎週末楽しみにしている彼らのラジオ番組『PONTSUKA!!』では知らない曲ばかり流れていて、SNSで曲名をあげてくれるかたのリストを参考にさせてもらっているくらい。
でもいっこうに他の曲に移れずにいたのだけれど、引っ越し先の環境もあって最近、少しずついつもとは違う音楽に触れてみようかという気持ちになっています。
それもあっていままでは避けていた聴き方のシャッフルで音楽を聴いています。
今はちょうど『ダイヤモンド-Single』から「ラフ・メイカー」が流れてます。
ただわたしのPCのApple Musicだと表記がLaugh Makerと英字表記に。

と書いていたら「なないろ」に。
そんな風にシャッフルでBUMP OF CHICKENのみなさまの音楽をもっと知ってみようかな…と思って流しながら、日課の日記やらモーニングページに書いたことを今日はブログにしようかなと思います。
それが、きっとタイトルにしてるだろう“成分“ということについて。
聴こえてくるな、と思ったんです、そうしたその曲に宿る成分のような構成するものがBUMP OF CHICKENの曲から。
でも、それって全然不思議でもないよく知られていることのはずで。
よく聞く話だと、痛みを患っていた時に創られた曲を聴いた人が同様の場所に痛みを感じることがあるという話。
でも、そうした痛みとかだけでなく、祈りの部分も音楽って宿すことのできるもので、そして届くことができるものなんだなとすごく感じながらいます。
音楽だけでなく、料理や、本や、心が宿る先ってほとんどの全てで。
きっと、わたしのブログ。
きっと、ここずっとわたしが表面上で元気なつもりでいて書いていたけれど、消えてしまったようなどこにも存在していない場所で息をしながら生きているような日々でいたわたしでいたから…。
きっと、それが伝わってしまう人だっているんだと思う。
今、とっても申し訳なくて、本当にそれが申し訳ないとしか書けないけれど、どうかわたしはこの場所に宿せるものがあるとするのなら、出会ってくれた人の心なのか、頭なのか、そのどこか顕在的ではない部分で暗い色をした光の海のような存在になりたいなと思う。
前回のブログをさっきまで非公開にしていたのも、きっと、わたしが描いたものを目にした人に、何か伝わってしまうものがあったらと怖くなったからなんです。
でも、そうした怖さを、未知である、受け取った人が捉らえるべきことを、わたしが偏った憶測で決めつけて逃げる習慣をやめていきたい。
出会いって、本当に不思議で、奇跡で、それでいて必然の宿命のようで。
なんだか、たとえば、BUMP OF CHICKENは30年という時間があって。
わたしはそのほとんどを遠くの記憶として、でも記憶を繋いできた記憶にあって。
それはたくさんの宝物のような思い出の彩りになっているたくさんの景色と心の隣にあった音楽と一緒にいて。
互いの存在を認識し合っていない時間も生活は流れていて。
その時間をずっとずっと心は動き続けていて。
人が出会うってすごいタイミングなんだなと。
もう、ここしかないんだってくらいの。
だから出会う前の命の時間を人は憂うこともあるだろうけれど。
本当にこの世界はすごいバランスで成り立っているってことに気付かされる。
あなたが宿したいものがあり続ける限り、世界は幸福の道を歩んでいることに変わりないんだと思う。
その祈りに触れる時がたとえ何年先であっても。
何千年と先であっても、わたしたちが今ここにあることは、何億年も前からの祈りなんだって。
だから、わたしは望まれて生まれ、生きているはずだって。
失わないでいて。
あなたが生きていることに希望なんて持っていなくてもいい。
消えたいって毎日自分に言っていたっていい。
周りがすべて見えなくなっても。
命は、あとちょっとしかないよ。
祈りを感じているこのわたしは、あとわずかの時間を、この先の祈りのために生きていたい。
声の届かなかった時間を悲しまないで。
届いたということは、あなたに届けられた祈りがあったということだから。
でも、ごめんなさいって、ブログには書きたくない言葉だけれど、なんだか言いたくなった。
ずっとずっと、届かないように、見ないように、気付かないように生きてきたことを。
さっき、でも書いたように、
憂うという時間より、届いたことの感動に生きていたい。
残りの時間なんて、きっとわずかで。
今日かもしれないし、もしかしたらわりと何年か先かもしれないけれど、わたしはこの命を思い出したい。
多くの祈りにずっと感動していたい。
その細い髪の毛と痩せた腕の先に伸ばそうとした多くの生きたいという祈りがあったことを忘れたくない。
その命は安らかに、幸福に、わたしたちを見守っている。
たとえば、もしわたしが今日いなくなることが決まっている命だとしたら。
そういう宿命が待っていたとしたら。
今日のブログには、あなたへの祈りが宿っているといいなと思う。
マリー
愛しています。

きっと、千年後の音楽が聴けるなら、おんなじ祈りを抱え宇宙にかえっていくんだろうな。
ずっとわたしたちは祝福の一滴の人間だ。
読んでくれてありがとう。
改めて、マリーでした。

