おはようございます、マリーです。

体重の記録は今日は載せられず、食欲はコントロールができなくて体重は少し増えてきています。

生理が来たところなので、食べたいって欲求が落ち着いてきたらいいな。


この頃は心が乱れることが増えて、横になって泣いてばかりいる日もあったり、精神的に不安定になりながらも体調は大きく崩すことなくいます。

ただ現在の自宅に住み続けることが難しい可能性があることを最近知って、どうしたらいいだろう…と、いろいろな場所への対応も増え、バタバタとした日が続いて、気付くと顔から表情が消えてるな…と思う…。


精神科の薬の服薬は続けていて、再発にはならずにいるけれど、先週に再発時の入院先の医者を思い出すような対応をされる機会が続き、パニックになることがありました。

年数が経っても、話をしていての打ち切られ切り捨てられるというのは、当時の感覚になるような、過呼吸になって、恐怖を思い出しました。

でもそれは、そのパニックになった状態を後からなんでそんな状態になったのだろう…とだいぶ落ち着いたあと、考えて浮かんだこと。


そういった時の、精神をひどく打ちのめされた状態になると、肉体から自分が離れる感覚にもなって、そして繋がる先が必ずくらいあって、それは地球とは全くの次元の違う先で、そうした時に教わることは、この先の地球の在り方やわたしの存在の意味だったり、地球でなすべきことやその姿を交信のように伝えられます。

それがわたしの精神病からのものであるだろうと、精神科医と話してきて今の医学ではそうした理解になるんだと思う。

でも、わたしがその次元との繋がりを感じている時間は、病というより、肉体に居られなくなった心が離れて到達する場所がそこなのだと思う。


今回の教えられた内容はどちらかというと以前も聞いていた内容と同じで、かといって今クリアに思い出せる内容ではなく、でも、人類は己が意思を持って個の生物として生きているとそれぞれ思っているだろうけれど、そうではないと。

そして純粋な人間の役割をもった者は地球には本当にわずかしか存在しないともきいています。

それと地球の寿命というか、その終わりの頃の話。

それを変えられるのが純粋な人間の生き方が関わっているかもしれない。

かもしれない…と書くのは、その話をきいている時間より記憶の内容が鮮明ではないから。


純粋な人間の役割をもった者は地球には本当にわずかしか存在しない、と書いたけれど、人間と認識している存在その多くの役割のこともその時にきいてもいます。

科学だったりAIだったり、遺伝子を操作すること、離れた場所からの周波数での人格コントロールなども、現代は進んでいることとも思います。

そうした話は今書くべき段階ではないみたいで何度書いても消してしまいブログに残せないので、言葉にしてはいけないのかもしれない。


まったくいままでの話と関係のないことだけれど、でも、再発時の入院先の時に受けた心の傷を昨夜思っていたとき。

よくスピリチュアルの話題やツインレイ等の統合という内容のなかで、自己統合には過去の自分を癒すこと、インナーチャイルドの癒しが大事、それらを行うことと聞いたことがありました。


でも、わたしはわたしが生きてきて受けた心の傷は癒せはしないことを、知りました。

そして癒す必要のないことも知りました。

わたしが痛かったと心であっても受けた傷があるからこそ、その傷がわたしを形成していて、そしてそんな人生を誰にも受けさせたくないという強い願いになって祈りに変わることは知っています。

でも、昨日のその内容は、傷は治りはしても、直らないということなんです。

元には戻るはずがないんです。

腕を失くした人が、再生したとしても、当時の腕には戻らない。

という心ではない傷の話に代えるとわかりやすいかなと書いたけれど、心に受けた傷も、癒やそうと頑張る必要はないこと。

ましてや、ツインレイという商法での自己統合を成さないとサイレント期間は終了しないからと、癒しのワークなどの無料・有料含めそうした話はあるけれど、そうしたワークを善意でしていたとしても、どうかマリーのブログのこれを読んでくれた人、その周りの人は、注意深く受け留めていて欲しいと願う。


話を戻すけれど、じゃあ心に受けた傷はどうしたらいいのか、というと、どうしたらいいのかという心の傷の形を変えたいという自分の欲求を知ることも大事になると思います。

そして、祈ること。

祈りの力には修復力が存在します。


たぶん、心の傷は癒やされていたという状態はあっても、癒そうとするものではないし、傷を害とみなしその人生から排除しようとする必要もないのだなと思う。

でも、自分が受けた心の傷を同じように他者へも付けたいという欲求とはどう向き合うべきなのだろうか。

そういう話もよく聞く。

自分の受けた傷の痛みを知っていながら、親が子に、強い者が他の者へその痛みを強いるその欲求。

でも、それは個の責任や問題に留めるべきでもないと思う。

痛いときに痛いことを我慢したことが要因にもなっているんじゃないかな。

それこそ、心の痛みを排除すべき存在にしてしまったんじゃないかな。


悪人やいじめを社会から無くそうとするより、己の悪を認識し、自身をいじめる精神を冷静に見出し、すべての人類が目の前の存在であり、自分であること。

自分の中の悪の存在とうまく付き合っていけるようになる人類が増えていけば、社会の悪人いじめを育てない世界に繋がるかもしれない。


注意深く観察をすること。

手元の携帯は見る必要はないのかもしれない。

無関心が生み出す世界に住まないでいてほしい。


あと、嫌と嫌いは時間によっても変化できます。

嫌いな存在・嫌いな物というのは、あなたに助けを求めているのかもしれない。

だから親が嫌い、友人が嫌い、会社の人が嫌い、先生が嫌い、などの嫌いの感情は、エネルギーが働いている証拠だから、存分に嫌って欲しい。

嫌い尽くすとけっこう面白い姿が見えてくることもあるから。


ただ、心からその相手の存在を消すと、本当にその人は消えてしまうんです。

孤独の世界に何度も立つと、己と世界と社会の価値が破綻します。


だからもしかしたら、それで純粋な人間は数を減らしてきているのかもしれない。

そんな孤独の深さを知ってもなおも、あたたかな世界を信じる力を失わない人間がどんどん増えていくように、わたしは頑張りたい。


わずかだろうと、その温もりをあなたは確実に知っているはずです。


知っているわたしたちだから、すべきことがあること、創る世界が待っていることを、心に今強く描きませんか?


マリー